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何故巡り合わせが悪いのか…

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有り難し有り難し 17

学校を卒業し、最初に入った会社に勤めて13年になります。今まで激務に追われ、産休に入る人の肩代わりを3回してきました。正直、もうやりたくないし、毎回、何で私だけが肩代わりしなけらばならないのか、当時独身だった為、私は結婚もしてないのに、なぜ私だけこんな辛いのかと毎回思っていました。結婚して、主人の転勤で、住み慣れない関西へ来て、仕事もやりたい仕事をあきらめて2年半。ここに来てまた産休に入る人が出て来て、私が肩代わり…もう嫌…何故私だけ?と思ってしまいます。どうしてこうなるのか。。また、こういう時、どうしたら楽になれるのか、負のスパイラルに嵌ってしまっているようで、抜け出したいですが、方法がわかりません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

不幸感を増長するのは被害者意識

いずれにせよ誰かがやらなかれば行けない仕事ですね。それほどまでに不平等、不公平、不条理、理不尽であるならば、会社側に納得がいかないことを主張するべきです。
あなた❝だけ❞が産休をした人の仕事を❝すべて❞やるのであれば、それは確かに不平等というものでしょうから、一人ではとても対応できないことを訴えて、みなで分配するべきことを主張するべきだと思います。朝のミーティングでちゃんと発言するべきであろうと思います。
泣き寝入りは負担やストレスを増やすだけですから。
さて、それとは別に、物事を上手に捉える方法として、自分が被害者意識に陥っていないかどうかをチェックしてみてください。
幸福感が強い人は、あなたのような立場にあっても、学べることができた、向上の機会を得た、スキルアップにつながる、と前向きです。
その中から楽しみを見出すアタマの使い方をこころえているから何処にあっても楽しめるものです。
私には無理、とか思わずまず、やってみてください。
どんな困難な中にも必ず獲得できることがあるはずです。これはあなたが今の状況の中で、それ以上に不幸に陥らないためのコツです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

情けは人の為ならず

goyagoya様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

goyagoya様はきっと、どこでも周りから頼りにされる程に色々と仕事ができる優秀な方なのではないかと存じます。

ただ、丹下様もおっしゃられていますように、肩代わりが理不尽なものであれば、会社に対して、待遇面での改善、体制の見直しなどの善処は求めるべきであるかと存じます。

さて、「情けは人の為ならず」と申しますが、人のために役立つ行いを仏教では利他行と言いまして、その善徳としての行いは、必ず巡り巡って自分にも返ってくることになると考えます。それが「自利利他」という考え方になりますが、ただ、それも何か見返りを求めてしまっていては成り立たないものになってしまいます。

「三輪清浄」のことにつきましては、下記の問いを参考にして頂けましたらと存じます。

問い「人に施すことが、疲れてきました。」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002999841.html

『・・「三輪清浄」とは、施す者、施しを受ける者、施すモノ・コトの三方共に清らかでなければならない、あるいは、「三輪空寂」として、三方に対して、とらわれや執着、実体視したりしてはならないというということが求められ、もちろん、見返りを求めるような心も起こしてはいけないことになります。また、どこかで、自分を犠牲にして、こんなにも施しているのに、という恨みや怒りが出てきてしまいますと、それは煩悩であって、そのような気持ちを持つ施しではいけないこととなります。・・』

難しいことかもしれませんが、その肩代わりを、例えば嫌悪を抱いて、怒りや憎しみに思ってしまっていては、その利他行は利他行ではなくなってしまい、かえって煩悩による行為として、悪い結果をもたらしかねません。心から相手のお役にと思い取り組むことで、きっといずれ善い巡りがやがて戴けるのではないかとは存じております。

ただ、それもあまりに善い巡りを期待してとなってしまうと、三輪清浄から外れてしまいますので注意が必要となります・・とにかく、「仕方がない、まあ、少しでも役に立てれば」ぐらいで思って頂ければ有り難くに存じます。

goyagoya様のお幸せを祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

ありがとうございます。
幸福感がいつも薄いです。それも今の辛さの原因かと思います。よく考えてみます。ありがとうございます。

ありがとうございました。
「人と比べても何もならないと言うことを言ってくれる人が居なかったんだな、君には。」ドラマに出て来た台詞です。私のことかも知れません。心穏やかに過ごすにはどうしたらいいか、考える毎日です。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ