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結婚が破談になったお坊さんいらっしゃいますか?

回答数回答 1
有り難し有り難し 46

はじめまして。
ていと申します。

お坊さんで結婚が破談になられたご経験のある方おられますでしょうか?

私は結婚前提で付き合っていたお寺のご子息がおりましたが、どうしようもない事情がありお別れすることになりました。
(詳しくは書けませんが、二人の問題とはちょっとちがいます)

両親にも挨拶を済ませ、同棲していたので
籍こそ入れていないものの、夫婦同然の生活を数年送っておりましたので、このたびのお別れは私にとっては耐え難いものでした。

ご縁がなかったんだと言われればそれまでですが、これでは人生にぐれてしまいそうです。えぇ。ぐれてます。

とっても素敵な彼だったぶん、悔やんでも悔やんでも悔やみきれません。

これは私のいままでの生き方が間違っていたから罰が当たったのでしょうか?

わたしはどうすればよいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

沢山いますよ

おかわいそうに。(T_T)世の中思い通りにならんことばかりですじゃ。
別に罰ばち当たったとかそういうことじゃありませんよ。
私の知り合いの和尚Aは親の反対で結婚が破断、Bは相手のお嬢様が(Bも?)あまりにもわがままで破断、Cもまた親の反対で破断、DとEとFおよびGはコリン星※に旅立ちました。
※コリン星…離婚のこと
まず、ともかく、冷たいようですが、あなたが傷つかないために申しあげます。
①オトコなんざゴマンといます。失恋ややむを得ない事情によって分かれるにしても、世の中の男はその人ばかりではない。
②同棲をしてきたからこその❝愛着❞❝愛着心❞です。それはぶっちゃけ、他の人にでも今後、相着信は生まれるのが人間のさがというものです。
③別れたということは、それが結果です。過去です。過ぎた事をとやかく言うよりも、明るい未来の為の次なるアクションを起こしましょう。(心を停滞させてはならぬ)
④然るべくして、別れざるを得なかった。そういう方
と無理して結婚しても後アト親族とモメたりなんだりで大変な思いをしている知人HとIもいます。
⑤被害者意識を持たない。
人間自分を一番苦しめるのはこれです。負けない、屈しない、打ちのめされない、へこたれない、損した気持ちにならない。そのためにも、別れて良かったメリットを探しましょう。
彼と別れる事で、今後無限の可能性が広がります。向こうの誰かは安心したかもしれません。
それほど素晴らしい彼との関係を退くことで、彼は他の誰かを幸せにする功徳が生じます。
傷付かない為には、傷つかない考え方、傷つかない捉え方があります。
これを機縁として、私的な道ではなく、彼の幸せも祈りつつ、多くの人を幸せにする仏の道に通ずる生き方を歩んでください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様

ご回答をいただいておきながらお礼が遅くなり申し訳ございません。
ありがたいお言葉、たいへん身に沁みました。

心は自分で決められるんだと思いました。これからは彼の幸せを願いつつ、私も幸せになります。
今回の件で心配をかけたまわりの人たちを幸せにできるのも、自分なんだと気がつきました。いつまでもどんより過ごすのはもう終わりです。

前を向いてがんばっていきます。
ありがとうございました。

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