承認欲求との闘い
水候と申します。この4月から会社員として働いております。
強烈な承認欲求と闘っています。
私は幼少のころから自己評価が低く、「自分の居場所がない」と感じがちです。そのためなんとかして他人から認められようと努力し、客観的な成果を残してきました。
たとえば大学では論文や学会発表の数をみても、高い水準にあることが客観的なデータとして明らかであるにもかかわらず、周囲は私に冷たい態度でした。もっと言葉に出してほしい。あるいは私を頼るとか、わかりやすい態度で示してほしい。そんな気持ちが湧き起こりました。
「居場所を作るには他人から認められるしかない。でも実際にがんばったのに報われない。もう何をしても無駄」という虚無感に襲われています。
自分で自分を認めることも考えましたが、自分を認めるにはそれなりの根拠が必要で、どうしてもそこがネックになっています。
もともとコミュニケーションが苦手であることは自覚しています。私も不安でしたので精神科で心理検査を受けたところ、「発達障害というよりも生育過程や環境要因、社会的スキルの未成熟により感情表出が乏しい」と診断されています。そのため発達障害の診断および治療を受けたことはありません。いわゆる病気ではないのでなんとか自分で改善するしかないのです。
なかなか他人と深いコミュニケーションがとれず、にもかかわらず承認欲求は強い。周囲からすれば近寄りがたい人間に見えるでしょう。それでも誰か一人でも私を承認してくれる人、いわゆる友達ができれば、私はとても楽になると思っています。私としてはもっと他人とかかわりたいのに、向こうから避けられます。上述の指摘にあるような社会的スキルも、そもそも人とかかわらなければ身につくはずもありません。
どうすれば、「自分の居場所」をつくることができるのでしょうか?自分を受け入れてもらうために、また自分で自分を受け入れるために、私はどうすればいいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
振り返りが必要かもね
こんばんは。折角色々と努力してきたのに、それが自己肯定に繋がらない。それは勿体ないというか寂しいことですね。
まず坊さんぽいことを言うならば、「阿弥陀様という仏様は、自分が凡夫だ、足りない所のある人間だ、限界があるということを悟って、自らのみを頼ることを捨てて、”助けてください”とお念仏を称えれば、その全員を極楽へ救うと誓っておられます。あなたも自分が凡夫であると思うなら、自分でできることはやり、残りは仏様にお預けなさい、南無阿弥陀仏と称えてごらんなさい」という骨子でお伝えします。しかしこれね、ネット越しの顔も知らない人に言われてできるならいいけれど、なかなか難しい事でもあると思うのです。
あなたが「承認欲求が満たされていない状態である」との自己分析は、多分あたっていると感じます。「客観的なデータが出ている」のに、「周りから言われたくなる」ようですので。「いずれ認めてくれる人が現れるに違いない。いずれ論文引用のオファーがあるに違いない」と、大きく構えることができないのですから。コレは何となくですが、「子どもの頃のできごと」が未完了である感じがします。何かお父さんに認めて貰えなかったこととか、今でも根に持っていることとか、あるのでは?その頃の悔しさが終わっていないのではないかしら。
それを具体的に思い当たるならば、その人を一旦、心理的にコロス必要があるかも知れません。「心理的親殺し」…調べてみて下さい。
あと、「診断されなかった」との事ですが、「ソーシャルスキル 大人」とでも検索すれば幾分かはヒットしますよ。貴方のような状況の人は、少なくないと思います。思えば20年ほど前の「自己啓発セミナー」では、よく感情の解放とかをやっていたようですし、今でもトレーニングとして提供している会社はあるように思います。あとは映画とか小説とか沢山ふれる。サッカーとか応援団に入って、思いっきり応援してみるとか?
ともあれ、努力してきて結果も出して来た方が、自己像の低さにより芽を出せないでいるとすれば、非常に勿体ない事です。このhasunohaをご利用になり、ご自身の気持ちを開陳していくと、「力になりたい」と思っている坊さん達が何かを返してくれますよ。
質問者からのお礼
大変ご丁寧な回答、ありがとうございます。
私としましても、自分の気持ちを話すことで気分が楽になることは実感しています。しかしながら、そのような重い話の出来る友人もおらず、かといっていつまでも抱え込んでいてはいずれ破裂してしまう。そのため失礼ながらこの場(hasunoha)をお借りして、私の気持ちを整理するとともに、願わくば清らかな心を持ち周囲の人と深くつながる準備をしたいと存じます。
今後ともよろしくお願いいたします。