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結局人間は一人ですか?

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有り難し有り難し 121

結局人間は一人ですか?

最近人が信じられません。
自分が信じても他人は同じだけ返してくれるわけではないからです。
自分が他人を悪く言わないように気を付けても他人は悪く言います。

いっそ一人になりたくても人に執着してしまう自分がいます。
心から自分を理解してくれる他人なんて存在しない気がしています。

これは自分を理解してほしいという気持ちを他人に求めすぎている考え方でしょうか。
どういう考えをもって人と関わっていけばいいでしょうか。
ご意見頂ければと思います。
よろしくお願いします。

2016年6月11日 19:45

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あわく付き合うという「間合い」

人に限らず、あらゆるいのちによってわたしという存在が
あります。一人であると思うことの方が難しいように感じるのが
わたしの感覚です。

要約にはなりますが、澤庵和尚という方の言葉に、
料理というものは、香りも味も淡いものがいい。濃すぎもだめだし
薄すぎてもだめ。
人間というものも同じで、深く濃く交わるよりも、あまり余計な思い
を抱かないでいる事が結局最後の最後まで長く付き合える。
よかれと思ってなにかすることは最もダメなこと。

という言葉があります。
人間というだけあって、いわゆる「間」というものが大事だと
説かれた言葉ではないかと思います。

私たちが生きるには、自分ではどうすることも出来ないこと
ばかりです。水を飲むにも水が安全に飲めることを
信じているわけですが、それだってあまり深く考えたことも
なかろうと思います。

人間関係においても同じ。
相手は自分ではないわけですから、あまり過度に信をおくよりも
「水道の水は飲める」程度の信で付き合うのがいいのでは
ないかと思いますし、それの方が、長く付き合える仲になるはずです。

どうしたって付き合わねばならぬ他人は居ります。
それは忌避したって、自分が苦しむだけ。
ならばあわく付き合う程度に考えを変えたほうが、自分にも
相手にも、いい「間合い」が出来るのではないでしょうか。

2016年6月11日 20:48
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有り難し
おきもち

そうです、人は一人です。

簡略しますが、お釈迦さまは人生において「サイの角のようにただ一人歩め。」と申されました。
他者に思い悩まされたり、遊んでいる最中にも寿命というものはどんどん短くなっているわけです。
また、完全に分かり合える人なんてそう滅多にいるものではありません。
良い友と関わるのは良い事とは思いますが、それでもあまり他者に期待しすぎず自分を高める事柄に集中するのも一つの大事な生き方ではないでしょうか。

古典ですが、「友と交わるにはその人の良きところを友とすべし。」ですかね。

2016年6月12日 18:15
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有り難し
おきもち

在家出身の高野山真言宗の僧侶です。 お坊さんよりもサラリーマンの方が長い...

見返りや報いを求めない心で相手のために

orange様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

私たちのそれぞれは、とても一人で生きていけるような存在ではなく、色々と他に依存することによって、何とか生かされて生きることができるような、非常に弱い弱い存在でございます。

ですので、この弱い者同士が、より良くに過ごしていくためには、お互いの助け合い、支え合い、分かち合い、補い合いが大切となって参ります。

その際に必要となるのが、配慮や気遣い、お互い様の心、仏教的には四無量心の慈悲喜捨の心となります。

もちろん、こちらがそのように心掛けてはいても、期待通りに相手は返してくれないこともあるかもしれませんが、何か見返りや報いを求めての心で行ってしまっては、本当の意味での配慮や気遣い、慈悲喜捨の心とは言えない行為となり、それでは善い行いや功徳にもならないものであると仏教では考えることになります。

相手の迷惑や押し付けにならないことは当然として、見返りや報いを求めずに純粋に相手の苦しみを取り除いてあげようとして相手の為に行う行為こそ、尊い功徳、善い行いになる次第でございます。

「情けは人の為ならず」、仏教的には、「自利利他」と申しますが、この支え合い、助け合い、分かち合い、補い合いにおいて成り立っている人間世界におけるありようをしっかりと理解して、お互いがお互いで快く幸せに過ごしていけるようにして参りたいものでございます。

とにかく、余裕があればにて、見返りや報いを求めない心で相手のために、任意で、無理せずできることを心掛けていかれてみられてはいかがでしょうか。

善処を祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

2016年6月13日 11:55
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有り難し
おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

質問者からのお礼

星 大晃さん

回答有難うございました。
確かに過度に信をおいていたかもしれません。
「水道の水は飲める」程度の感覚で気を付けていきたいと思います。

渡部仁海さん

回答有難うございました。
自分は他人との距離感をとるのが下手なので、それで思い悩みやすいのかもしれません。
自分を高める事柄に集中することを意識します。

川口 英俊さん
回答有難うございました。
おっしゃる通り見返りや報いを求めていたのかもしれないです。
情けは人の為ならず、を心がけていたつもりだったのですが、いつの間にか忘れてしまっていました。
無理せずできること、を心がけたいです。

皆さん客観的なご意見を頂けて少し落ち着けました。
回答有難うございました。

「人間とは何」問答一覧

他我がこわい

高校二年生です。 質問のカテゴリが少しズレているかもしれません、すみません。 相談というよりも、誰かに分かってほしいという思いの投稿です。 突然ですが、私たちは各々『自我』をもって、それぞれ自分の見る世界があって、色々なことを考えたり感じながら生活しています。よね。 自分以外の人がもつ自我を『他我』と呼びますが、私はこれがすごくこわいです。 うまく説明ができません。 友達に理解してもらうこともできませんでした。 ネットで調べてもそれらしい答えは見つかりませんでした。 例えの1つなのですが、 ごくたまに、一緒に生活している親のことを、『他人』と認識してしまうことがあります。 「あ、この人も私と同じ時間で別の人生を生きている1人の人間で、」 「私から見た『親』は親には分からない、そして同じように 今このとき、親から見た『私』がたしかに存在しているんだ」 そう思って、親のことを何か得体の知れない生き物のように、生々しいものに感じて怖くなってしまいます。 何を言っているかわからない自覚はあります。 私は、私のまわりのひと全部、なにかRPGのキャラクターのように認識しているのかもしれません。 それぞれにそれぞれの意識や感情や人生があることが、こわいんです。 自分でも、どうしてこんなに心の中で他人のことを怖がってしまうのか分かりません。 死んだ後の世界や自分の行く末がわからないことが怖いように、人の意識や心なんて絶対にわからないことだから、それが怖いのでしょうか。 どちらにせよ私は私のことを寂しい人間だと思っています。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

人は悪なのに何故みんな仲良くするの?

人は殆ど悪の存在で、とても利己的です。 攻撃的なチンパンジーと変わらないDNAです。 知らない人を家にあげたら何か盗まれるだろうし、お金を貸したら殆ど戻ってきません。 人類の大半はずーっと何千年も争いをしています。 ネットは常に罵詈雑言の嵐だし、毎日悩み相談サイトでは人間関係で悩んでるし。 男女対立や女性の浅ましい感情などが毎日のように展開されています。 こちらハスノハでも、結構わたしに対して"病気"を理由に間接的に攻撃されますし、どんなに徳を積んだ偉人や芸能人でも攻撃的な人ばかりです。 癌医学の功労者は差別主義者だし、DNAの発見者も差別主義者です。 毎日のように芸能人が脱税とか問題発言とか。 人間って悪だなと思います。 それでもみんな周りの話を聞いてると他人を信頼しているそうです。 私は人に期待しない事を心がけていましたが、もはやそれですら心を防御できません。 世の中悪しかいません。 善の心なんてないですよ、善があるのなら私に金持ちの人が無償でお金やらなんやらを与えるはずですし、大半の人は悩んでないし、毎日楽しいはずです。 感謝して悟るなんてないですよ、感謝して他人を優しくしても仇でしか返されませんし、いい事なんてありません。他人は悪です。 結局悟る道なんてなくて、他人は悪であり、どんなに学ぼうが人は悪であり、自分が悪であると悟ってもそこから善になる事はないし、人は攻撃的なので感謝は無意味だし、親切は仇で返されるし。。。 このまま人間関係を維持しないといけないのが辛いです。 人間関係を維持しないと生きていけないので尚更辛いです。 どうすればいいのでしょうか?それでも感謝して親切していくしかないのですか? 「ゆっくり毎日善行を積めばいいのです。」と言われそうですが私は小さい頃からそれをやってて仇で返されたりするのでそれが信じられません。 仏教では、この場合はどうすればいいのですか?それでも他人に感謝ですか?

有り難し有り難し 14
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「欲」と「向上心」の違いは何ですか?

こんにちは。いつもお世話になっております。 人の人生において悩みの種となるのは、大抵が「欲」であると聞きました。 私も今まで、その「欲」によって何度も悩んで、落ち込んできたように思います。 しかしその「欲」と「向上心」の違いが最近分からなくなってきています。 例えば、私は絵を描くことが趣味なのですが、 自分の絵が評価を受けると、もっとここを工夫してたくさん評価を貰えるようにしよう、練習を頑張ろう、とたくさん努力するのですが、 いい評価が貰えなくなると落ち込んだりイライラしたり、自分を責めたりしてしまいます。 それを繰り返していると、何のために絵を描いているんだろう…という気持ちになってしまい、最後には絵を描くのが嫌になってしまいます。 絵に限らず、人間関係等もそうです。 もっと人間関係を広げたい、広げるために色々な場所に行ってみよう、もっともっと… それが大きくなり、疲れてしまうのです。 これは「向上心」が途中から「欲」に変わってしまったということですか? それとも私が向上心と思っていたことは向上心では無かったのでしょうか。 新しい場所に飛び込んで、どんどん前に進んでいくことはいいことだと思うのですが、 最終的にいつも悩みのタネになってしまうことがとても辛いです。 何かこのことについてアドバイスを頂けないでしょうか。

有り難し有り難し 21
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人はなぜ全ての事に意味を付けたがるのでしょう?

最近、心理学に基づいた心の扱いについて学ぶ機会を得ました。 そこであったのが、人間は全ての事象に対し、何かしらの意味を付けたがる生き物なんだ、という事です。 確かにその通りだな、と思ったのです。 例えば 「あなたは笑うと可愛いですね」と言われた時に、 「笑わないと自分は可愛くないのか?」 「おっさんに可愛いなんて馬鹿にしているのか?」 「自分は笑っていないといけないんだ」 「あ、自分は可愛いんだ。ありがとう」 という様々な意味を付けると同時に反応が沸き上がる、という話です。 同じ言葉なのに、それを言う相手、それをいわれた状況、言われた自分自身、などから様々な意味が行われます、 事実は、「あなたは笑うと可愛いですね」と言われた。ただそれだけ、なのに。 質問は、なぜ人間はこんな存在になってしまったのでしょうか、という事です。 もっと単純に受け取ればいいのに。人はウソをつくからなのか? と思ってしまうのです。 人が意味付けする事に、「なぜ?」を持ち込んでもしょうがないのかもしれませんが。 その理由がもしあるのであれば、人がもっと楽に生きる事のヒントが生まれないかな、と思ったのです。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

他人とは何でしょうか

子どもの頃から親、クラス、教師など他人と関わるのに疎外感を感じてきました。 その時の自分を表現したかっただけなのに、杭として飛び出れば、やっかみやいじめや、利用してやれ、無視してやれみたいな報復が待っており、世の中の大多数の他者とは分かり合えない、という思いが形成されました。 そういった「分かり合えない、わかってほしい」という思いと他者との関係は大人になってもたいして変わらず、そういった渇望に付け込まれて、やりがいの名の下にいいように働かされ、精神を病んで休職してしまいました。 自分が、他人と仲良くなるかどうかは別として森羅万象の相互関係性のなかで生かされていることは理解できます。他人の存在がなければお米を食べることすら不可能です。 それでもやっぱり、休職から社会に戻って人と関わるのが怖い。というか、自分の中に他人を位置づける場所がないのです。 他人と折り合えない、悲しい、深く傷つき、自分さえもそれを癒せない。ましてや外の世界に救いなんて無い。 また、わざわざ傷つきに戻るのだろうかと... そこで、そもそも自分そして他人とは何かということを考えています。 仏教では、自分さえも固定的な本質を持たない、相互関係性でその瞬間ごとに成立しているただの現象であると説いていますよね。 では、同じような原理で発生している「他人」、例えばジャンケンしようとして相手が何を出すのかすら観測不能なまでに隔絶された「他人」というものについて、仏教はどう説明しているのでしょうか? 教えてください。

有り難し有り難し 11
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人間であることに違和感があるような者と話をして頂けます処は.

ネットにて、今、全く初めてこちらさまのご存在を存じ上げたばかりのところです。 「自己紹介」等の欄にお書きしました通り、私の中には、小学生の頃から、人間の傲慢さがどうにも許せない、ありえない、という思いが深く根を張っております。   このような感覚をもって、現世に人として生きていくことこそありえないわけで...  似通った感覚をお持ちの方がいらっしゃるのでは、と「引きこもり」の方たちの電話相談にはおかけしたことはあるのですが、私の話を一方的に聞いて頂くだけになってしまいました。  あまりにも恵まれた時代と環境に生まれ育った故の所産であることとは自覚しておりますが、この人間社会に長らえるには、自分の感覚を 鈍く鈍~く、何も感じないように... と、感性を抑え込むしかないようで...  現在、人類が いよいよ行き詰まっている、その大もとの根っこにあるものは、我々が、ほかの生き物たちを、日々、凄惨な生き地獄に突き落としている、その自覚さえなくなってしまっているという大問題であるとの思いが募っています。  ほかの生き物たちの激痛に思いをいたせない生き物の社会に、戦争がなくなるはずがない、とも学生時代から確信しています。    特に日本人は「わたしたち」という言葉には、あらゆる生きものたちを含む、という感覚が まだ残っていた(人が多かった)と思われますので、取り返しのつかないような焦燥感にも苛まれます。  西洋の、あのあまりにも人間中心の文化を思いますに.. (たかだか100世代も遡らない頃に) [人間は他の生物とは隔絶した、超別格の存在である] という理論を、きっちりと美しく構築しなければ、さすがに後ろめたくて生きにくくなってきたのだろうか? 我々農耕民族とは違って... などと考えています。  実際に困っていることは、少しは現世と関わりを持つべく、細々と活動していることの中に、[感性を抑え込]んでしまっては成り立たないことが大いに生じることとでございます。  このような者(自分を含め 全ての人間に非礼かと思われますので..)と話をして頂けますような場などおありでしょうか?  不遜なことを申すようですが、「世捨て人」「すきもの」などと呼ばれていた方々の中には、私の感覚に近いお方もいらしたのでしょうか..? ということも、一度お尋ねしたいと思っておりました。

有り難し有り難し 12
回答数回答 1

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