お墓参りについて教えて下さい。
初めまして。
質問させて頂きます。
お墓参りに行く時に、そのお墓を管轄しているお寺にお参りするものなのでしょうか。
そのお寺には法要の時に初めて行きました。
その後に初めてお墓参りに行った時に、ご住職にお礼を言いに行きました。
法要の後に電話でお墓の場所を教えて頂いたのです。
お墓は霊園では無く、お寺から少し離れた街中にポツンと建っています。
故人とは仕事仲間です。
お寺にお参りしたい気持ちがあるのですが、私は身内では無いので非常識な事ではないかを心配しています。
故人のお身内とは法要の時に面識があるだけです。
お寺には賽銭箱などは見当たらず、どこでお参りしてよいか分からないのです。
それもお参りを躊躇う理由です。
これからもお墓参りには行き続けたいと思っています。
どうぞよろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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お寺の本堂にお参りしましょう。
非常識なことではありません。
お寺にお参りなさることはとても尊いことです。
私のお寺では、朝から夕方までは本堂を開けています。
お墓参りの方には「本堂に参りましょう」と張り紙をしています。
うちのお寺のお墓に参ったのであれば、うちのお寺のご本尊様である阿弥陀様にも手を合わせて欲しいです。
それはお墓参りを縁として、阿弥陀様の教えに出遇う機会になればと願っているからです。
リーフレットや冊子、お寺の新聞等もお堂内に置いていて、ご自由にお持ち帰り頂けるようにしています。
しかし、昨今では鍵がかかっていることも多いです。
悲しいことですが、防犯上仕方ないこともあります。
その場合には、本堂の前で手を合わせましょう。
お賽銭の必要はありません。
仏様に手を合わせることが目的です。
お賽銭箱があるのであれば、なさったら丁寧かと思います。
お参り の 真意
キリスト教でも教会でお参り?礼拝をするように、仏教ではお寺の本堂でお参りをするものです。
本尊さんとは、人間が我を打ち捨てて、無我になって、仏の智慧や慈悲があらわれ、あふれ出た、自らの姿です。こういう説き方をする坊さんは皆無で、絶滅寸前ですので、心の片隅に置いておいておくんなまし。
本尊を拝む、お参りする。
お参りって何でしょうかね?一緒に考えてみましょう。
参る、参る。本尊をお参りするのでしょうか?それともあなた自身の行為なのだから、あなた自身をやっている、あなた自身を拝む、あなた自身の仏を拝むのかもしれません。
自分にお参りし、自我の念を滅すれば、本来の自己の姿に立ち返れる。だから、自分の本性、仏性、法性をおがむのが本当の❝おがみ❞なのです。
決して偶像崇拝ではありません。偶像崇拝的なお参りにしてはいけないのです。
こちらは別に賽銭イレテケロともお願いしてもいません。
賽銭はあくまで喜捨ですから、任意です。
曹洞宗の大本山総持寺の前貫主猊下は「慈峰英鑑禅師大鼎晃仙大和尚」さまという方でした。
じほうさまが、そうした仏縁を深めて慈しみにあふれる峰、慈峰さまとして、多くの方を山のように不動で受け入れるような大きな心になりましょう。(^<^)
そういう自己を深くみつめる自己の内なる仏様へのお参りこそ、本当のお参りなのです。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
そうか、扉が閉まっていたのですね。
いくつかの建物ばかりしか見えないので、戸惑っていてしまいました。
非常識ではないと教えて頂きホッとしました。
ありがとうございました。
丹下様ありがとうございます。
ご本尊をその様に考えた事はありませんでした。貴重な教えをありがとうございます。
名前のご縁もありがたく思います。
どうもありがとうございました。