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自分を律することができません。

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有り難し有り難し 24

はじめまして。
私は現在大学三年生なのですが、半期の留年が決まってしまいました。大きく単位を残しているわけではなく、あとほんの少しという情けない結果になりました。

このことは私の性格の甘さ故です。
夜が好きで、小学生でもできるような早寝早起きができず、起きる時間になっても、あとで頑張ればまだ大丈夫だろうと自分にとても甘いです。父や母が仕事を頑張って、高い学費を払ってくれているのに…。

小さな頃から学級委員を任せられたり、現在もゼミではリーダーを務めていたりと、周りの人に頼られると、どんなに早起きでも、理不尽なことでも頑張れるのに、自分一人のことになるとまるでだめになってしまいます。どうにか自分を律し、戒める方法はないでしょうか。
お言葉を頂けましたら嬉しいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

マイナスで終わらない。

ゆかやんさん。

質問文、何回か拝読しました。
自分にも似た経験があります。
誰かのために頑張ることで誉められた経験が、いつの間にか自分自身の事に向き合うことを後回しにする癖を育てていました。

私も大学は2単位履修できず、卒業が伸びました。
でも、なんとか生きてます。
当時の自分に言い聞かせた言葉は「マイナスでは終わらない。」

どうせなら学費分の元をとりたいと単位を取るための講義出席以外に、シラバス見て面白そうな科目を聴いていた中に、現在の福祉につながる場がありました。hasunohaでこのような場をいただいているのも、留年の半年間で出会った縁がもとになっています。

当時の事だけを考えると、私も両親に大いなる迷惑をかけましたが、この20年の間で見ると大切な投資だったと思えます。

そんな私ですが、昨年、保育士試験で2点たりず不合格になりました。
自分を変えることは実は大変かもしれません。
ですが、自分のクセを知ってうまく折り合いをつけていくことで、前抜きな人生を歩む人も少なくないです。

ゆかやんさんは、責任感が強く、自分のためよりも他人のために頑張れる人なのじゃないかなと推察しました。
自分の力だけで自分を律し戒めることは難しいです。
その傾向をできなかった時の理由にするのではなく、悪い結果にならないための備えとして活用してください。

両親へのフォローは今すぐ帳尻を合わせようとするのではなく、あの留年のときの縁が後に大きく花開いたといえるものに変われば良いと思います。
これからの頑張り、陰ながら応援しています。

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おきもち

hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

恥を力にしましょう。

〇あなたは自分に恥をかいた。
もっと強烈に恥をかくことです。
自分のその大失態をはじめて、ようやく、恥じたのです。
それを力にするべきです。
恥は力になるのです。
二度と、こんなことはしない、という約束を、自分に、親に、そしてここでお約束を致しましょう。

〇人間、人のためにならば力が沸くのです。
わたしも役割を頂けばモエます。
ある歌手はコンサートで一人18000円頂くそうですが、それ以上の価値を与えるべく、力を出し切るのだそうです。以下の事をご両親にお伝えください。
「坊さんに相談したら、アンタは人から何かを頼まれればものすごい力を発揮するタイプだから、ご両親から、具体的なミッションを頂くように言われた」といって、親御さんに、あなたが確実にこなせる役割をもらうとイイでしょう。 
自発的に動かないならば、多発的に自分の脳を上手に動かすことが大事です。
深夜のTVやネットサーフィンなんぞは、所詮他人事なのですよ。
人の情報に振り回されて人生を棒に振らず、もっと価値がある事に力を注ぎなさい。(/・ω・)/
これは私からのミッションです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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