因果応報とは。
ふと思うのですが、因果応報とは本当にあるものなのでしょうか。。
嫌なことをされた思い出がよぎるたび、正直、バチでも当たれ、とか、同じような目にあえばいいのに、とか思ってしまいます。
でもきっと、私だけが恨みにまみれて、相手は何もなく普通に生きてると思います。
それか、同じような目に仮にあったとしても、私に知る機会はありません。
私だって主人に出会ってからは確かに幸せだけれど、
失ったものを考えると、悔しくて悔しくて仕方ありません。
過去の他の方の質問で、バチあたれ!と思うのは良くないと知りました。
確かに、そう思った矢先に石につまずくようなこともありますし、よくないみたいです。
踏んだり蹴ったりです。
もちろん仕返しはできません。できたとしても、私の主義に反します。
じゃあ、どういう心構えでいるのが良いのでしょうか。
恨みがつらく、解決に自殺を考えることが時々あるのです。(今はありません)
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
因果応報でないものがない
今の精神状態も、世の中の全てのさまも因果応報で無いものがありません。
世の因果応報という言葉の使われかたは悪人が悪をなせば報いを受けて天罰を期待するような因果応報論ばかりですね。
「悪いことした奴らバチあたって因果応報で氏ねばイイのに。」
↑こんなことをお釈迦様がいったら因果応報で仏教は滅びています。
ところが世間の因果応報論はこれとさほど変わらないでしょう。
いかに世間の因果応報ということが誤った使われ方をしているかをこれを機に知っていただき、悟りの機縁となさってください。
あなたの心の中であなたが思った事、考えた事でさえ、あなたの中で因果応報なされるのです。
たとえば、あなたがキライな相手のことを問題にされる。
相手に「因果応報でバツを受ければいい」と執着する。
すると、相手の事が気になり罰が当たらないと面白くない、といった感じで心が怒りなど負のエネルギーであなた自身のなかで因果応報、報いを受けてしまうのです。
だから、そんな事をやめれば、やめたという因果応報になる。
心にとって良い、健全なあり方を保つために止めるべき事を止めずにやり続けたままでいると、それが結果となって必ずめぐってくる。
「因果応報」
だから、これは心を悟りへ向かわせる心の用い方、用心、在り方について説いたものとして読み取るべきものなのです。
「事に触れて思いが生じた時」その思いに手を付けると、その手の付け方、扱い方次第でさまざまな因果や縁が生じます。
何もしないで手を加えない、という因縁が生ずれば=なにもしなければ、何もしないで手を加えなかったという原因が次の良い悟りの結果を生みだすという大法則なのです。
イヤな事がポンと起きた。その時に、そのまま悪いことだ、と引きずられて悪いことを考えて続けて虚しく過ごするのではなく、悪いことがポンと起きたら、悪いとも好いとも言わずに、それを其のままに無評価で過ごす。煩悩の火に油を注げばますますモエます。だから、火が起きた時、我々禅僧は油を注がないのです。
そうすると、起きた火は自ずから滅するのです。
今から、どんな思いの火が生じても余分な思いはからいの油を注がないようにしようという修行を因として、心に注いでみてください。確実に、必ずよき結果を生じましょう。
「燃えるものが無ければ火は燃えない」
毎日が因果応報
因果応報というと、悪いことをしたら何か罰が当たるというイメージでしょうか?
半分正解、半分間違いです。
まず、仏教の基本は、悩み苦しみの原因は自分の煩悩だということ。自分の煩悩を育てると、苦痛が増えます。
たとえば、怒りの煩悩が増えると、小さなことでも大変な嫌な気分になりますから、その人は他の人より苦しい日常になってしまいます。
人は、悪いことをすればするほど、心の煩悩が増えます。つまり、悪いことをしていると、ささいなことでも悩み苦しみやすい性格になるのです。
100円玉を落としただけでも会社が倒産したような嫌な気分になる性格になったら、その人は毎日苦痛でしょう。
他人と肩がぶつかっただけでも、盗賊に襲撃されたような嫌な気分になる人は、毎日が嫌なことばかりになります。
因果応報とは、悪いことをすると苦しみやすい性格になる、ということです。
苦しみやすい代表はガキ(子供)です。飴玉ひとつのためや、注射とかでも、かなり悩み苦しみますよね。
悪い人というのは、ガキなみにすぐに苦しむおバカさんなのです。だからこそ、ありえない過ちを犯してしまうのです。畜生なみに頭が悪いから、地獄のような苦しみの日常なのです。