心の平和を得たいです。
私は、ずっとラメッシ・バルセカール(Ramesh S. Balsekar)の非二元論の基本原理「出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない(仏陀がオリジナルの言葉、無我)」「神の意志でないかぎり、何ごとも起こらない。起こることすべては神の意志(自然の法則、運命)」という心の平和のための教えを気にしてきました。
もちろん、社会の上では、みな行為者です。つまり、社会には行為者はいます。社会は個々の行為者とそれに伴う責任なしに機能しません。人間は虚構によって生きています。
つまり、人生においては、実際には行為者はいないことを理解しながら、まるで行為者であるかのように生きなければならない、ということです。
ラメッシの言っていることは、仏教の世俗諦と勝義諦の考えと同じだと思います。
世俗の真理と究極の真理は、矛盾するものではなく、互いに補完しあうものであると考えます。そうであれば、ラメッシの教えに問題はないと思います。
仏教の縁起の法則(自然の法則)でも、すべての現象は、他の原因によって起こり、独立した実体はない(空)と言っています。
それでですが、仏教的には、例えば、殺人行為が行われた場合、世俗諦としては、行為者が存在しているため、罪で悪ですが、勝義諦、つまり究極の真理としては、行為者はいない、つまり無我であるため、人間存在に、功罪、善悪は存在しないと思うのですが、どうでしょうか?
だとしたら、私は救われます。
見解をお聞かせください。
達成感というプライド、罪、罪悪感、憎しみ、嫉妬、羨望、責任、敵意、失敗という挫折感、恥、などの自由意志ひいては行為者感覚に起因する心の重荷です。過去を思い煩い、未来を心配します。
お坊さんからの回答 2件
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仏教の教えをどう生きるか
ご相談いただきありがとうございます。
あなたの考え、とてもよく考えられていて、仏教の理解も深いことに嬉しく思います。確かに、仏教の教えには「無我」 という概念があり、ラメッシ・バルセカールの非二元論とも通じる部分があるとお思います。
しかし、ここで一つ大切なことをお伝えしたいのです。
たしかに、勝義諦(究極の真理) から見れば、すべての存在は「縁起」によって成り立ち、独立した行為者はいません。これは仏教の「空(くう)」の教えとも重なります。
でも、それだけでこの世のすべてを説明しようとすると、私たちは「生きる」ということの意味を見失ってしまうかもしれません。
なぜなら、私たちは世俗諦(この世界の真理) の中で生きているからです。あなたもおっしゃるように、この世の中では「行為者」としての私たちがいて、その行為には責任が伴います。
「この世界には本当は行為者がいないのだから、善悪もない」 という考えは、理論としては理解できます。しかし、もしそれを理由に「何をしてもいい」となってしまったら、それは仏教の教えとは違う方向に行ってしまいます。
仏教では、善悪は「ない」のではなく、縁によって生じるもの なのです。善い行いをすれば善い縁が生まれ、悪い行いをすれば悪い縁が生まれる。だからこそ、仏教では「善き縁を結びなさい」と説いています。
例えば、誰かがあなたを傷つけたとします。その人も「無我だから、私は何もしていない」と言ってしまったら、あなたは納得できるでしょうか?
仏教は「救いの宗教」です。あなたが「救われたい」と思っているのなら、「私は何もしていない」という考えではなく、「私はどう生きるべきか」という問いに向き合うこと が大切なのかもしれません。
この世界の中で、「自分」という存在がいる以上、善いことをすること に意味があるのです。それが、自分にも、周りにも、良い影響を与えるから。
つまり、仏教の「無我」をどう生きるかが大切なのです。
「私は何もしていない」と思うのではなく、
「私にできる善いことをしよう」と考えてみませんか?
それが、本当に「救われる」道ではないでしょうか。
業(功徳や罪業)の相続は起きる
親と子供は別人ですが、親の財産や借金は子供に相続されます。
昨日の私と今日の私は別の存在ですが、記憶データや肉体の特徴や功徳や罪業は相続されるので、例えば、昨日の私の悪事の被害者から今日の私が復讐される等が起こり得ますね。
仏教では、涅槃(輪廻転生からの解脱)に入ればそのような因果応報からの卒業が可能だと考えられます。
つまり、例えば殺人犯がこの世で生きている間は社会の法律の因果に縛られるし、死んで輪廻転生しても涅槃に入るまでは業の因果に縛られると言えるのではないでしょうか。
輪廻転生の中で平和な心で笑いたいなら、功徳(善の業)を積んで穏やかな性格になる方が良いでしょうね。
追記
浄土宗では、念仏を称(とな)える者は極楽浄土に往生でき、極楽浄土では誰もが必ず成仏できる(涅槃に入る能力を得る)と説かれます。
なので、過去の罪から解放される近道は、南無阿弥陀仏と念仏を口ずさみ往生を願うことだと言えます。