無我とは
最近、無我の状態について学んでいます。
そこで疑問が生まれたので教えていただけると光栄です。よろしくお願いします。
無我、自我はないと認識することで、わたしという存在が消えてしまい、自己喪失につながってしまう、自分の人生を歩むという認識ができなくなってしまうのではないかと思いました。
無我の状態において、自我ではなく、わたしとはどのような存在なのでしょうか。
私の考えは、私とは常に変わりゆく、今を生きる生命体、存在、脳と体、です。
まだまだ仏教の勉強は始めたばかりで、あまり分からない状態ですが、教えていただきたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
無我とは「我がない」の意味ではない
お釈迦様は「我がある」も「我がない」も間違いと、門前払いします。
あるとかないとか言う前に、我ってなにか、調べてください、と言います。我が何か分からないまま、あるだろう、いや、ないだろうなどと議論しても意味がない、と。
「我がある」と信じているバラモンたちには、体と感覚と記憶と衝動と認識、要するに自分の心身の「何かが我である」と言えるかどうか自分で調べてもらいました。心身のいずれも無常で苦なので無我(我ではない)と確認して、終わり。
弟子たちには、無常な各自の体や感覚や心の生滅の連続を、各自が確かにそうだったと自分で発見できるまで観察(ヴィパッサナー)瞑想で修行させます。無常だと分かれば苦で無我だと同時に納得します。
その修行の過程で、「我」というより「私という気持ち」がどこから生まれるのかも分かります。何かを感じるやいなや「いやだ」とか「あっこれ好き」などという好き嫌いの感情が生まれます。(修行では、いやとか好きとか考えるのは御法度で、構わずに次々と変化する感覚をこれ、これ、これ、とただ確認し続けるよう言われます。)十二因縁では受→渇愛の流れです。好き、は、私が好き、いやだ、は、私がいや、で、好き嫌い、つまり欲と怒りという煩悩は、私という気持ちがあるから同時にあるのだと観察できます。
私という気持ちをお釈迦様は根本の煩悩、無知とか無明と言っています。我とは、煩悩のボスなのです。煩悩=私という気持ちがなくなると、解脱です。
煩悩=私がなくなっても、死んだり廃人になるどころか、私心のない、欲も怒りもない、つまり智慧=理性だけの心で、あと、良い感情(慈悲とか)だけをわざわざ作って、お釈迦様は他者のために生き続けてくれました、体が続く限り。
私たちに分かりやすく言えば、我は実体ではなく煩悩=感情なので、あるかないかではなく、完全に消えるまでは多いか少ないかの量で判断できます。我が強いとか我を張る=私という感情が多いと、うまく行きにくいです。我が少ないとか無私の心=私という感情が少ないと、うまく行きやすいです。
我=私は感情=煩悩ですので、好き嫌いと同じく、完全になくなって悟るまでは強まったり弱まったりします。無常という物事の真理の視点から、感情少なめに理性多めに生きると、的確な判断ができてうまく行きやすいと思います。
自分の人生に執着する必要はない
すべては無我だ(実体はない)と気付いたら、全ては執着に値しないと思えます。
あなたの人生もべつにどうでも良いものなのです。
どうでも良いけれど、あっても良いのです。
たとえば、雪だるまも周りの雪と同じで、雪だるまの形が崩れても雪は雪です(雪だるまは無我です)から、雪だるまが雪だるまであることに執着する必要はない。
だからと言って、近所の子供が「お姉ちゃん、雪だるま作ってよ」と言うなら作ってあげたら良いのです。
作れるなら作れば良いし、作れないなら作れないで良いし、作ったものが壊れたら壊れたで別にいい。
無我に気付けば、どんなアクシデントが起きても「まぁ、いいか」の身軽な心になれるのではないでしょうか。
質問者からのお礼
雪だるまの考え方、わかりやすかったです。ありがとうございます。