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無我とは

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最近、無我の状態について学んでいます。
そこで疑問が生まれたので教えていただけると光栄です。よろしくお願いします。

無我、自我はないと認識することで、わたしという存在が消えてしまい、自己喪失につながってしまう、自分の人生を歩むという認識ができなくなってしまうのではないかと思いました。
無我の状態において、自我ではなく、わたしとはどのような存在なのでしょうか。
私の考えは、私とは常に変わりゆく、今を生きる生命体、存在、脳と体、です。

まだまだ仏教の勉強は始めたばかりで、あまり分からない状態ですが、教えていただきたいです。

2024年8月6日 12:06

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無我とは「我がない」の意味ではない

お釈迦様は「我がある」も「我がない」も間違いと、門前払いします。
 あるとかないとか言う前に、我ってなにか、調べてください、と言います。我が何か分からないまま、あるだろう、いや、ないだろうなどと議論しても意味がない、と。
 「我がある」と信じているバラモンたちには、体と感覚と記憶と衝動と認識、要するに自分の心身の「何かが我である」と言えるかどうか自分で調べてもらいました。心身のいずれも無常で苦なので無我(我ではない)と確認して、終わり。
 弟子たちには、無常な各自の体や感覚や心の生滅の連続を、各自が確かにそうだったと自分で発見できるまで観察(ヴィパッサナー)瞑想で修行させます。無常だと分かれば苦で無我だと同時に納得します。
 その修行の過程で、「我」というより「私という気持ち」がどこから生まれるのかも分かります。何かを感じるやいなや「いやだ」とか「あっこれ好き」などという好き嫌いの感情が生まれます。(修行では、いやとか好きとか考えるのは御法度で、構わずに次々と変化する感覚をこれ、これ、これ、とただ確認し続けるよう言われます。)十二因縁では受→渇愛の流れです。好き、は、私が好き、いやだ、は、私がいや、で、好き嫌い、つまり欲と怒りという煩悩は、私という気持ちがあるから同時にあるのだと観察できます。
 私という気持ちをお釈迦様は根本の煩悩、無知とか無明と言っています。我とは、煩悩のボスなのです。煩悩=私という気持ちがなくなると、解脱です。
 煩悩=私がなくなっても、死んだり廃人になるどころか、私心のない、欲も怒りもない、つまり智慧=理性だけの心で、あと、良い感情(慈悲とか)だけをわざわざ作って、お釈迦様は他者のために生き続けてくれました、体が続く限り。
 私たちに分かりやすく言えば、我は実体ではなく煩悩=感情なので、あるかないかではなく、完全に消えるまでは多いか少ないかの量で判断できます。我が強いとか我を張る=私という感情が多いと、うまく行きにくいです。我が少ないとか無私の心=私という感情が少ないと、うまく行きやすいです。
 我=私は感情=煩悩ですので、好き嫌いと同じく、完全になくなって悟るまでは強まったり弱まったりします。無常という物事の真理の視点から、感情少なめに理性多めに生きると、的確な判断ができてうまく行きやすいと思います。
 

2024年8月7日 7:45
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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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自分の人生に執着する必要はない

すべては無我だ(実体はない)と気付いたら、全ては執着に値しないと思えます。
あなたの人生もべつにどうでも良いものなのです。
どうでも良いけれど、あっても良いのです。
たとえば、雪だるまも周りの雪と同じで、雪だるまの形が崩れても雪は雪です(雪だるまは無我です)から、雪だるまが雪だるまであることに執着する必要はない。
だからと言って、近所の子供が「お姉ちゃん、雪だるま作ってよ」と言うなら作ってあげたら良いのです。
作れるなら作れば良いし、作れないなら作れないで良いし、作ったものが壊れたら壊れたで別にいい。
無我に気付けば、どんなアクシデントが起きても「まぁ、いいか」の身軽な心になれるのではないでしょうか。

2024年8月6日 12:34
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質問者からのお礼

雪だるまの考え方、わかりやすかったです。ありがとうございます。

「仏教における縁起」問答一覧

上手くいかない時の考え方

いつもお世話になっております。ふと、思う事があったのでまた相談させていただきます。自分の中で流れが良くないな、と感じた時どうしたらいいのかという事です。 鉄道従事者なので接客が主要ではありませんが、仕事上でどうしても嫌な旅客に当たる事が多く余りにも酷い場合は頭に血が上る事も少なくありません。 それが所謂縁起の良い日、例えば大安の日だったり吉日というものは数多くありますがそういう日に上記のような事があると余計に嫌な気持ちになります(縁起の良い日は前向きでいたいと思っているので) そんな日々を過ごしていて思ったのが、ポジティブ思考の人はどんな時でもポジティブでいられるのだろうかという事です。別の例であれば、一流のプロ野球選手でも「練習したくないな」とか「試合に出たくないな」といった気持ちになる事があるのかどうか…という事でしょうか。 お坊さんであれば、日々の修行であったりとかお経を読んだりとか…なさってる事は沢山あると思います。そういったことを「もう続けたくないな」とか「悟りなんて開けないのでは」といった気持ちの時どうするのだろうと思いました。 ポジティブ思考の人には良い事がやってくると言いますし、お金持ちの人は自分は運が良いと思っている人が多いと聞きます。そういう方々は、どんなに辛い目にあっても前向きでい続けられるのか、運が良いと思い続けられるのか自分には想像がつきません。 戦争が現実として存在するからこそ、平和という概念を理解出来る(喜怒哀楽も同じ?)と言う人もいますし、100%のポジティブ思考は存在するのだろうかと疑問に思っています。もし存在しないなら、自分は運が良いと思う人にも運が悪いと思う瞬間もあるのではと考えています。 そうだとしたら、その時に何かしらの考え方としての対処法があるのではと思いました。ポジティブな人、運が良いと言える人に悪い事が起きないとは言い切れないはずなので… 100%のポジティブ思考、悪い事なんか寄せ付けない強運体質になれるに越した事はないと思う一方で本当はそんなものがあるのかと疑問に思っています。回答お待ちしてます。長文でわかりかくてすみません。

有り難し有り難し 22
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内面を磨く

いつもお世話になっております。 hasunohaではたくさんのご回答から、より良く生きるヒントをいただき、本当に有難うございます。 おかげさまで仕事先からは、たくさんのお呼びの声をいただけるようになりました。 職場の先輩方は、弱音や愚痴を極力表に出さず、上手に巧みにわかち合って、お互いに一意専心・以心伝心で昇華させながら、補い合って進めていきます。そんな今の職場の人間関係に恵まれたこと、収穫もある毎日が鍛錬と喜びの連続です。 ひとつの大きな人生課題として、あらためて家でも内面を磨くこと、こちらも専念していきたいと願っています。少し前に浮かんだ遠い目標を考えた上でも、自分が変わることが未来をより幸せに明るくする鍵だと思いました。 人生いろいろ、なかなかうまくいかないことも目の当たりにすることがありますが、自分が折れることも大事だし、適度に緩めて、毎日学ばせていただきながら、周りの円満成就の良き実例に倣っていきたいです。 熟練の先輩方と、同世代の働き盛りの仲間、そして心身を支えてくれる若手の心強い味方からの心遣いを糧に、家庭人としても内面を磨いていきたいです。 108の煩悩の倍の時間ほど、家族のためにと外で働けた辰年の睦月に感謝、多くの御縁と仲睦まじく一年を過ごせるよう楽しみます。

有り難し有り難し 5
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無我と縁を意識したら、体調を崩した

 いつもお世話になっております。無我と縁について疑問です。  「無我」は、徹底的に自分を殺すこと。自分に気持ちに蓋を して、とにかく相手を優先すること。  「縁」は、他の事物や人物が自分に、自分も他の事物や人物に 影響を及ぼしていること。  そう考えて生活していたら、精神に異常をきたしました。  「無我」…「他人様を不快にさせてはいけない。皆さん私を どう思うだろう。我慢をしなければいけない」と常に考えていたら、 自分と同じく障害を持つ者が、店員さんに怒鳴ったり健常な異性に 絡んでいるのを見て、自分まで健常者さんに申し訳なくなりました。 デイケアでも我慢をしました。    「縁」…「自分も他の人に影響を及ぼしている」と常に考えて いたら、燃え尽き症候群になってしまった支援者さんを見て、 私のせいだと思いました。  結果、体調が悪化しました。終いには、 「私たち障害者は、人様に迷惑をかけてばかりで、生きていても 誰も幸せにならない。死んでしまいたい」 という結論になりました。  泣きながら訪問看護師さんに伝えたら、入院を強く勧められ ました。  主治医の先生、カウンセラーさん、保健師さんなどのお力を 借りてだんだん体調がよくなりましたが、「無我」と「縁」に 関しては、10年以上仏教を信仰していて、長年の疑問です。  自分を殺せ、どんなときにも我慢しろ。仏教では、そんな にもカルトチックな事を説いているのでしょうか?  今回体調を崩し、主治医の先生からは、 「ストレスコーピングを身に着けるように」 と指導されました。  それを受け色々調べていたら、「自分は自分であると自信を 持て」と私の尊敬する科学の先生が教えを説いていました。  「あまり周りのことを考えすぎても、周りが見えなくなる。 自分自身も見失い、最終的に悩みが大きくなり精神病になる」 「礼節を守ったうえで、自分は自分だという自信を持てば、 無用な事を怖がったり、ストレスが少なくなる」 なるほどと思いました。  もし、「とにかく相手に尽くせ。どんなときも自分を殺せ。 とにかく我慢しろ」と仏教が説くなら、私は「仏教はカルトと変わらない じゃないか」とショックです。実際に、私はこれで病んだのですから。  ご教授いただきたく存じます。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 13
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ