感謝って…何だろう???
私は四半世紀生きてきて、未だに感謝の心というものを自分の中で掴みあぐねています。
食事の前に手を合わせたり、隣人に挨拶をする事など、人間の習慣には身の回りの物に対する感謝を表現する手法が数多く存在します。自分も、そうした習慣を子供の頃から自然な所作としてずっと実践しています。
しかし、それが自分の中で感謝という実感に結びついた事が未だにありません。手を合わせる事は出来ますが、心がついてこないのです。
三食満足に食べられる事。人の悪意に晒されずに穏やかに過ごせる事。雨風をしのげる家屋の中で寝られる事。
無くなれば間違いなく困る物は幾らでも列挙できるのに、それらが享受できるこの環境が幸せである、という実感だけが何故か根付いていないのです。
「周りの物に感謝して生きなさい」という文言を散々聞いてきたはずなのに、それが自分の中で活きてこない事に焦燥感を覚えています。他の方が自然に体得している事が、20年立っても出来ないのは何故なのか。それが未だに分からないのです。
日常に散らばっているはずの幸せの源泉を見失い、未だに足るを知る事ができない今の自分は、間違いなく救えない存在です。
もしかして、このまま全て失って後悔だけが残るまで、自分は周りの物に有り難みを感じる事ができないのではないのか?そんな事を考えて虚しくなる日々が続いています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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有り難し
感謝とは有り難し。ある事難し。つまり滅多にない事の意味です。サンキューではなく、「滅多にないことだなあ」な感覚で手を合わせるのです。
今日という日は一生で今日だけ。
今という時間は一生で今だけ。
さっき飲んだコーヒーは昨日のコーヒーではない。世界で一つだけのコーヒー。明日はもう飲めない。
明日も生きていると思っていても明日の命すら保証はない。
今は健康に歩けるが、明日は歩けないかもしれない。健康って当たり前ではないのだ。
そんなこと考えていたらぜーんぶ有ること難しでしょう。
そう思って手を合わせていたらそれで良いのです。まずは頭で理解して行動に移していけば、気持ちよくありがとうも言えますよ。
ちょっとわかる気も
私は、ちょっとわかる気もします。
私は、たとえば人に良くしてもらったときに、感謝や喜びよりも「借りができた」という負担感を先に感じてしまいます。
相手からお返しを要求されているわけじゃないのですが、借りができた感を味わうくらいなら自分が損した方がマシだとすら思ってしまいます。
多分、人間関係が面倒くさいのかもしれません。
目の前の食べ物一つとっても、それに関わった他人の苦労を想像することはできますが、だからこそ、それを無償で提供されると居心地が悪く、お金を払った方が気が楽だと感じます。
もしかしたら、サイコパス(脳の特性)の一種なのかもしれません。
何でもかんでも発達障害とかレッテルを貼るのは良くないですが、生まれながらの脳の特性が関係している場合もあるとは思います。
その場合、気をつけなければ、他人からの恩を全く無視して不義理や裏切りを働く可能性もあります。
政治や仕事の世界では、お世話になっているからと特定の人と癒着したり忖度しすぎるのは批判されますが、温かい人間関係は癒着や忖度からできているのかもしれません。
そして、感謝の気持ちが薄い人は、癒着や忖度からは自由になりやすい公平公正な人になれる才能があるのかもしれませんね。