無我と縁を意識したら、体調を崩した
いつもお世話になっております。無我と縁について疑問です。
「無我」は、徹底的に自分を殺すこと。自分に気持ちに蓋を
して、とにかく相手を優先すること。
「縁」は、他の事物や人物が自分に、自分も他の事物や人物に
影響を及ぼしていること。
そう考えて生活していたら、精神に異常をきたしました。
「無我」…「他人様を不快にさせてはいけない。皆さん私を
どう思うだろう。我慢をしなければいけない」と常に考えていたら、
自分と同じく障害を持つ者が、店員さんに怒鳴ったり健常な異性に
絡んでいるのを見て、自分まで健常者さんに申し訳なくなりました。
デイケアでも我慢をしました。
「縁」…「自分も他の人に影響を及ぼしている」と常に考えて
いたら、燃え尽き症候群になってしまった支援者さんを見て、
私のせいだと思いました。
結果、体調が悪化しました。終いには、
「私たち障害者は、人様に迷惑をかけてばかりで、生きていても
誰も幸せにならない。死んでしまいたい」
という結論になりました。
泣きながら訪問看護師さんに伝えたら、入院を強く勧められ
ました。
主治医の先生、カウンセラーさん、保健師さんなどのお力を
借りてだんだん体調がよくなりましたが、「無我」と「縁」に
関しては、10年以上仏教を信仰していて、長年の疑問です。
自分を殺せ、どんなときにも我慢しろ。仏教では、そんな
にもカルトチックな事を説いているのでしょうか?
今回体調を崩し、主治医の先生からは、
「ストレスコーピングを身に着けるように」
と指導されました。
それを受け色々調べていたら、「自分は自分であると自信を
持て」と私の尊敬する科学の先生が教えを説いていました。
「あまり周りのことを考えすぎても、周りが見えなくなる。
自分自身も見失い、最終的に悩みが大きくなり精神病になる」
「礼節を守ったうえで、自分は自分だという自信を持てば、
無用な事を怖がったり、ストレスが少なくなる」
なるほどと思いました。
もし、「とにかく相手に尽くせ。どんなときも自分を殺せ。
とにかく我慢しろ」と仏教が説くなら、私は「仏教はカルトと変わらない
じゃないか」とショックです。実際に、私はこれで病んだのですから。
ご教授いただきたく存じます。よろしくお願いいたします。
発達障害があるが、他の患者が苦手、健常者さんに負担を強いる障害者が許せない、 医師の悪口を言う僧侶が許せない、選挙で体調崩す、医師を顎で使ったり「薬減らせ」とごねる患者に辟易 #薬は悪くない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
救いのある形で機能させよう
先日、買い込んでいたサプリを大量に飲んだらホントに死にそうになりました。
薬は体を治すものだけど、使い方を間違えると毒にもなる。適切な服用が大事。
乗り物も人を運ぶのに便利なものですが、事故を起こすと怖いです。安全運転が大事。
火を使うものは調理や暖房には便利だけど火事になったらとても大変。安全な用い方が大事。
(*'▽')
仏教も人を救うもので自分をすくうもの。
無我も縁も「自分や人を救うための理解の仕方」というものがあるのです。
間違った解釈をすればカルトになりましょう。だから救いのある用い方、受け取り方が大事なのです。仏教は苦行ではないのですから。
仏教的な無我とは、世間一般で言われる自分を殺すことでも、相手を優先することでもありません。我慢する人だけ苦しむなら、その人は不幸になる。苦行です、それ。私も昔はそう思いましたが、救いのない理解の仕方は間違った解釈なのです。では、無我とは何か。どのようにして救いになる教えになるのか。
その前に逆に考えてみましょう。あなたのお友達が「無我になるぞ無我になるぞ!」と自分を苦しませている姿はむしろ我ではないでしょうか。
昔読んだマンガで「ここは雪崩が起きるから大きな声を出すなよ!」というギャグ漫画がありました。私たち人間は無自覚に矛盾を犯してしまうものです。
無我とは自分を無くすことではなく、自分自身のこの身心の活動というものはいつでもどこでも「もともと自分とか我という自我意識なしに動いてくれている」という事実のことなのです。人はいつでも最初の様子が人の意志や要求とは別の活動をしている=無我=我から自由であるということなのです。悩みだって発生時点では自分が作ろうとしているわけではありません。自分のキャラや立ち位置だって絶対的に固定な訳じゃありません。ハスノハのアカウントやネームだって元々自分はこれだ!なんてキャラなんてどこにもない。いつでも自由。再登録も可。それが無我の救いの側面です。縁ということも、自分と周りの物事とのかかわり・関係性が自分の都合・人間ルール、人間の価値観とはまるで無縁であるということ。もとから無関係で「縁」そのものが主体・主人公として大きく働いていることなのです。その反対は「わたし」というエゴが主体な眺め。この世の主人公は縁こそが主役。今日の天気だってそうでしょう。文字数の関係で回答はここまでです。
「無我」だから気にしない気にしない
「無我」なのだから、自分が他人に迷惑をかけているとか、自分が我慢しなくちゃいけないとか、自分が他人からどう思われているかとかは、気にしなくて良いのです。
「無我」イコール「気にしない気にしない」。
気にしすぎるとストレスで体調不良になりますからね。
「縁」も、原因と結果が複雑にからまっていて誰にも予測できないのだと思って、「なるようになるさ」と思いましょう。
「縁」イコール「なるようになるさ」。
仏教は悩み苦しみストレスを減らすためのテクニックです。
仏教を学んでストレスが増える場合は、どこか解釈が間違っていると思いましょう。
追記
おっしゃるとおりの解釈で間違っていないと思いますよ。
質問者からのお礼
【願誉浄史 先生】
お返事いただき、ありがとうございます。
無我だから気にしない…自分のせいだろうか!自分は
人からどう見られているだろうか!と気にするのも、
一種の「自己中心的状態」ということでしょうか。
ほどよく礼節を守り、清潔にしていれば、もうそれでよい。
ということでしょうか。
縁は「なるようになるさ」…原因と結果が複雑に絡まる
というのは、例えば、原因と結果の間に「条件」や
「環境」があり、原因がよくても、条件が機能しなければ、
よい結果をもたらさない。ということでしょうか。
以上のように解釈したのですが…
【願誉浄史 先生】
ありがとうございます。安心しました!これからは、
身辺の清潔さと礼節を保ち、程よい向上心を持って、
精進しようと思います。
それだけで、自信がつく。自信がつけば、(明らかに
公に危険があるもの以外は)何も怖くない。無頼な障害者が
いても、それは彼ら彼女らの問題であり、私の問題では
ない。彼らと私は別。
私はきちんと振舞っているのだから、支援者さんが
バーンアウトになっても、私のせいではない。
こちらは別の支援者さんがおっしゃっていたのですが、
「バーンアウトは仕事のストレスだけではなく、その人
自身の私生活のストレスも重なって起きるものなのですよ」
だから、無我にも繋がりますが、私のせいではない。
自分のせいでこうなった、自分は人からどう見られている!?
という気持ちは、反対に自分が地球上の全てを背負っているような
印象を与えることもありそうですよね。