以前にも父のことでこちらに相談させて頂いております。 8月4日に病気で亡くしてから、手続きなどの忙しさも少し落ち着き、日常に戻りつつありますが、ふとした時寂しい気持ちが込み上げて、会いたいよと叫んでみたり、虚しい気持ちになったり、早朝に目が覚めて、亡くなる前の病気で苦しそうにしていた姿を何度も思い出したり、そんな日々です。 この先、このような気持ちがもっと大きくなって自分が耐えられるのか不安です。 時間とともに、このような気持ちは落ち着いていくものなのでしょうか? どのような心持ちで、過ごせば良いのでしょうか? よろしくお願い致します。
はじめまして。 なぎと申します。私は文がうまくないのでよみにくかったり脈絡がきちんとしていないと思います。すみません。 私は現在21歳で、高校1年のときに友人をひとりなくしました。交通事故でした。当時、私はすごく落ち込み、しずみ、とてもショックでした。しかし、年月がたつにつれて、彼のことを思い出す頻度がだんだんさがり、それに気づいてしまって、とても悲しいです。自分に失望します。こんなにも薄情な人間なのかと。 私は高校2年のころから躁鬱病を患っています。そのことも逃げなのでしょうか。彼の死を言い訳に人に甘えているのでしょうか。そんなことを絶対にしたくないけれど、絶対にしていないとは言い切れないのが悔しく、虚しく思います。苦しいです。感情ばかりの文で申し訳ないです。 二十歳を過ぎ、お酒を飲むようになってから、飲酒をしたときの感情の起伏がはげしくなりました。大泣きは当たり前、自殺しようともするらしいです。記憶がないので彼氏いわくですが。二十歳をこえて、泣くのはおかしいでしょうか。みんなは泣かないのでしょうか。私だけ子供のままでいるような気がしてなりません。つらいです。 長くなってすみません。ここで誰かに聞いてもらいたかっただけなのかもしれません。ですがご返答いただけるととてもありがたいです。 友人の死を思い出す頻度が下がっていくことをどうしたら苦しく思いませんか。思い出さなくなっていく私がおかしいのてしょうか。ごめんなさい。お通夜で彼の顔をみましたがショックで思い出せません。最後に見た彼の顔を思い出せません。ごめんなさい。忘れられないほうがよかった。忘れたくなかった。でも、彼の家に近づくにつれて濃くなっていくお線香の香りはずっと覚えています。 書き殴りの文章ですみません、誰かにわかちあってもらいたかったんです。すみませんでした。
はじめて質問致します。 先日、母を突然亡くしました。まだ若かったのに。母の姿を見て同職種について仕事でもプライベートの悩みも分かり合える大好きな母でした。 私は離れて暮らしており頻繁には会えなかったですが、よく電話しており数時間前も電話とLINEをやりとりしていました。 春頃から環境の変化に伴い、母の体調が崩れ始めました。できる限り母の話を聞いたりアドバイスしたりしていたのですが。 もっと話を聞けば良かった等の自責の念もありますが、それ以上に母が生前苦しんでいた悩み等がなくなり安らかに過ごせるかが心配です。母も突然のことで後悔して自分でも信じられないと思います。それを考えると辛いです。母はどのようにして過ごすのか、どうしたら安らかに過ごせるでしょうか。私達遺族ができることは手を合わせて祈ることしかできないと思いますが、考えるだけで辛く遺族の気の保ち方も教えていただきたいです。 また離れて暮らしてるので実家にも仏壇は置くのですが、私の家にも写真やおりんを置いて手を合わせても大丈夫でしょうか。
大好きな母が癌で亡くなり、2週間が経ちました。 私は、28歳の会社員です。ひとりっ子で独身です。本音や弱音は母にしか話せず、親友のような存在でした。毎日LINEで連絡をとっていました。 母は仕事や家事を続けながらいつでも前向きに闘病していました。亡くなった日も仕事の予定でした。 ただ、5年間にわたる癌の治療が心身共に本当に大変だったことをずっと見ていたので、それでも家族のためにと明るく頑張ってくれたことを思い返すと心が痛いです。 突然の出来事に、実感もなく戸惑いが大きいのか、自分の気持ちが整理できません。悲しくて悲しくて仕方なく寂しいはずなのに、私は日常に戻ってきて今までどおり生活できていることが、どこか辛く苦しいです。不思議な感覚です。 母に会えない日常が、普通になってほしくないです。大好きな母にもう会えないことが信じられないです…
子供の頃より別居している父が亡くなりました。 亡くなる少し前に父の携帯番号から着信があってその電話に出ませんでした。 それは父が危ない状態なので私に会わせてあげたいと、異母姉が父の電話を使い掛けてくれたものでした(亡くなってからいただいた電話で知りました)。 父が重い病気を患っていることを知りながら丈夫な人だしまだ大丈夫だろうと電話に出ずに無視してしまいました。 今回だけでなく日頃から父からの着信にも出ることもかけ直す事もしなかったことを今になってとても後悔してます。 それだけでなく今まで父に対して自分のしてきたことで気がかりな事が沢山あります。 養成スクールの学費を出してもらったのに途中で投げ出してしまったこと、高額な楽器を買ってもらったのにすぐに辞めて売ってしまったこと、仕送りを無駄遣いしてしまったこと、優しい言葉を掛けてあげられなかった、親孝行できなかった、父は私のことを想って沢山の優しさを与えてくれたのにプライドが邪魔をして自分からは何もしてあげられなかったこと、、後悔ばかりが残ります。 自分はいつも求めてばかりで誰かには何も与えられない最低人間です。 父は酒癖も悪かったり借金癖があったり親としてどうなのかと思うことを私や母に対してしてきたり父親として完璧ではありませんでした、そんな父ですが優しさや愛情はちゃんと感じてたのに素直になれませんでした。 心の片隅ではもっと大切にしてあげたいと思っていたし本当は大好きそれなのに、こんな態度ばかり取って来たことを後悔しています。 病気になってからも何度か家まで会いに来てくれたのに何かと理由をつけて出て行かなかったり、一緒に食事に行こうと言ってくれたのに断ってしまって どんな父親だとしても私にとって大切なたった一人のお父さんなのに、最後まで何もしてあげられない自分が許せません。 父は亡くなる寸前まで私のことを心配していたそうです。 父の最期に立ち会う事も出来ずこの状況なのでお通夜やお葬式にも行かれず、式が終わったあとでお線香をあげることしか出来ませんでした。 いなくなってしまったあとに遅すぎる後悔をしています。 自分でやった事なのに今になって後悔するなんて本当に勝手な人間ですよね。
父が亡くなりました。 四年前に脳梗塞を患い、その後遺症で仕事が出来なくなり、自宅でリハビリや介護サービスを受けていました。 母と同居の妹と一緒に住んでいて、私も毎週のように顔を見に行っていました、うまく体が洗えないのでお風呂に入れてあげたり、足の爪を切ってあげたり、髭を剃ったりしてあげていたのですが、6月上旬に急に亡くなってしまいました。 四十九日の法要が終わり、遠方の父の実家のお寺のお墓と納骨堂にお骨を収めました。 自宅に仏壇はあるので、ずっと空き家になっていた遠方の実家の仏壇のお性根抜きも終わりました。 あとは分けたお骨を総本山におさめます。 四十九日が終わった今、なんとも言えない虚無感に襲われています。 亡くなってから四十九日までは色々とやらねばならない事でいっぱいで考える事もなかったのですが、今はやるべき事もひと段落し、父との思い出を色々と、いい事も悪い事も嫌だった事も思い出してしまい、脱力感と虚無感に襲われています。 一生懸命働いて育ててくれた感謝の気持ちといなくなってしまった悲しい気持ちと永遠のお別れのやり切れない気持ちともっと孝行したかった後悔の気持ちと色々な気持ちがぐるぐると頭の中を駆け巡ります。 この気持ちをどのように収めてゆけばいいのでしょうか。
私は我ながらに恋愛不適合者ですぐに 他人に飽きてしまい長く交際もできず いつからかちゃんとしたお付き合いもしなくなり 結婚願望もゼロ。でも1人でいるのは嫌いなので 好きになってくれた人とふらふら遊んで生きてました そんな中で彼とは出会ってすぐにこの人が 運命の人だなんて生まれて初めて結婚したい、 この人の子供なら欲しいとまで思っていました すぐに毎日会うようになりいつの間にか 彼は私の家に住み始めましたが 付き合うとかって話は避けてました 別れがあるのが、失うのが怖かったんです でも彼が一途に想ってくれてたのは分かってました 真面目な人だったので体の関係も私から無理やりってくらいでした ※私のイカれ具合は一旦置いておいてください こんなに人を好きになるのも外見も中身も 完璧な人と過ごすのも初めてで、怖かったんです 身体だけの関係の人が他に3人居たままでした 私にマイナスな言葉や断りを一切口にしない 何でも我儘を聞いてくれる彼に甘えていました 他の男性の家に酔って帰った時も男モノの服を 借りて匂いをつけたままで彼に迎えに 来てもらったり、きっと気づいていたのに 彼は何も言いませんでした 怖いくらいに楽しい時間だけを過ごして いつも笑っていたんです。彼との時間はただ コインランドリーに手を繋いで行くだけでも 幸せで毎日私の手料理をしつこいくらい 美味しいといって食べてくれて、 趣味も感覚も怖いくらい合うので とても楽で、本当にこんなに充実してていいのかな?って言い合ってたんです。 私との時間は人生の夏休みみたいだっていつか言ってくれたのをよく覚えてます。嬉しかった なのに仕事で酔って迎えに来てもらった私は彼を 1時間外で待たせた上に距離を置こうなんて 思ってもないくだらない駆け引きを仕掛けました その話はうやむやなまま、私は彼を家に おいて友達との付き合いで男女で旅行に。 最後の電話は電波が悪くて切れて、私は旅行で酔って彼の仕事が終わったよって連絡にも 遅れて返事をしました。一緒に寝たいねって、白々しく送ったんです。 そこではじめて彼から既読無視をされ、 帰ったら怒ってやろうなんて思っていたのに 帰宅後、警察からの電話で彼の自死について聞かされました 自分への嫌悪感と後悔で毎日涙が止まりません こんな私は一生この想いを抱えたまま苦しんで生きるべきですか?
安倍元総理が亡くなり、荼毘に付される前?後?に、ご自宅や国会議事堂等、ゆかりの場所を周っていたニュースを見て、ふと思いました、、 施設入所を嫌がり、あんなに自宅に帰りたがってた母を自宅に安置しなかった事を!! 夕方亡くなり、看護師さんに葬儀屋さんを探してと言われ、悲しむ暇もなく、葬儀屋さんを探し、手配し、お寺に安置し、枕経をあげていただき、次の日の通夜等の打ち合わせをしたら深夜1時になり、私もクタクタで、母を自宅に連れ帰る事は不可能ではありましたが、、 次の日の納棺と通夜までなら、半日あったのに気力が沸かず、しなかった、、 結局、母は家に帰らないまま通夜の翌日葬儀、そのまま荼毘に付され、その日のうちに埋葬されました、、 葬儀屋さんがテキパキしてくれて(^^ゞあれよ、あれよと終わってしまいました、、 私は喪主として、やるべき事を淡々とやらねば!!と気が張ってて、母の気持ちに寄り添わず、ノルマをこなすようにやってた感じでした。 今思うと母が可哀想だし、私はどこまでも親不孝だったとまた悲しみと自己嫌悪が襲ってきています、、 母が自宅に帰りたかった未練で自宅付近で浮遊霊になってないか心配です、、 自宅は空き家なので誰も居ない!!とパニクって探したり、寂しい思いをしてたらどうしようと思い、こんな時間まで眠れませんでした。 この気持ちをどう収めたら良いのでしょうか??(涙)
お釈迦様に料理を供して、結果的に死に至らしめてしまったチュンダの話。 チュンダはその後、どうなってしまったのでしょうか? 自分と重ね合わせて考えてしまいます。 神経難病で長い闘病の末、89歳で亡くなった父親。 ほぼ末期に近いと医師からは言われ、せめて自分に何が出来るか考えて、 父の大好きなコーヒーを許可を得て持っていくことにしました。 10日程経って、ある日突然父が腹痛と嘔吐を訴え、吐血をし、 それを誤嚥したことがきっかけでみるみる容態が悪化、 1か月余で亡くなりました。 仕事をしながらの介護・入院・看取り・葬送、 その後の諸々と振り返る余裕もなく時は過ぎましたが、 少し振り返れるようになった今になって気づいたことがあります。 吐血をした前の日、 いつもの通り仕事帰りに病院に行き、 夕食介助の後、私は父に持ち込んだインスタントコーヒーをトロミをつけて飲ませました。 父はあまり声が出なくなったのに、 「あぁ、コーヒーはやっぱり美味しいなぁ」とその時はハッキリ言いました。 それが本当に美味しそうだったので、今もありありと思い出します。 そして、翌日の昼頃に腹痛と嘔吐を訴え吐血したのですが、 あのコーヒーがその原因ではなかったかと。 会社で私も飲んでいたインスタントコーヒーを夕方ポットに作って持って行ったのですが、 そのインスタントコーヒーは何か月も前に開封したものでした。 健康体の私には特に差支えはなくても、父の弱った体には酸化したコーヒーが害があったのではないかと。 内視鏡検査も出来ない全身状態で、原因を特定できなかったのですが、 一日でも長く生きて欲しいと心から願っていたのに、 私が父の命を縮めてしまったのではないかと。 取り返しがつかないだけに苦しいです。 こんな罪を背負って、生きていっていいのかと思います。 私が死んで詫びたところで、どうにもならなのは承知です。 救いが欲しくて、読んだ仏教の本の中に、 チュンダのことが書かれていました。 チュンダは自分のせいでお釈迦様が亡くなったと、苦しみ続けて それでも尚生きたのでしょうか? 私はどう償えばいいのでしょうか?
自分は2世帯でずっと一緒に暮らしてきました。小さい頃からずっとおじいちゃん子で、とても優しく可愛がってくれました、 それで、今年亡くなってしまい、毎日お墓に行って線香あげに行くのと、毎日今日の出来事を書いてお墓に置いとくとか意味がありますか?
昨年、父が脳出血で急死しました。69歳で、まだ長生きすると思っていたので突然のことでした。もうすぐ一周忌ですが、気持ちの整理が付いていません。 私は親によく育ててもらって、大学にも行き就職もできましたが、とてもわがままに育ちました。実家にいるとどうしても親に甘えてしまい、特に酔っぱらいがちだった父親とはすぐ口げんかになってしまうので、そんな自分がいやで、5年前に実家を出て一人暮らしを始めました。 私は中学高校の時に、本気で父親を嫌っていたことがあります。それは父と母の仲が悪く、母をかばいたかったからでした。親に言ってはいけないようなひどいことを言い、傷付けました。父は亭主関白タイプでしたが、だんだんと母を見下すようなことは言わなくなり、変わっていっていましたが、私の方が意地を張ってしまって、大学生になっても父には反発した接し方しかできませんでした。 社会人になり、距離をとることで少しずつ素直に話せるようになってきていましたが、一昨年コロナの中、深く考えずに関西を出て東京に転職しました。 同じ時期に姉も短期の研修で1年東京に住むことになり、兄はもともと東京で奥さんと暮らしていました。 父親はそれが結構寂しかったようです。 それがどのくらいメンタルにきていたのかわかりませんが、家でお酒を飲む量がすごく増え、不健康な状態で、ある時急に脳出血を起こし、そのまま話すことはかないませんでした。 長々とすみません。 いつか仲直りしなければ、と思いつつ、なんの親孝行もできずに、全く謝ることができなかったことがとても辛いです。 私はわがままな性格のせいで、最近職場でも人間関係がうまくいかず、コミュニケーションの練習をする本を読んでいました。 すると「相手を思いやって、自分の非を認めて接する方法」が書いてあり、すべて父親にできていなかったことで、なぜ今になって気づいたのかととても辛くなっています。 お聞きしたいのは、漠然としたことですが、 いつか自分が生を全うしたとき、死後の世界で父に謝ることができるのか。ということです。 自分が死んで魂になったとき、父はそこにいるのでしょうか。 また、この苦しい後悔の気持ちをどうすれば良いのでしょうか。
自分の母親が仕事で忙しかったので、叔母が子供だった私のことを母親のように世話してくれ、可愛がってくれました。 叔母は独身で、晩年は田舎に家を買い、1人で住んでいました。この頃、私は育児など、自分にもゆとりがなく、離れた叔母のことを気にかけずにいました。 母親から叔母が足が不自由なことや、病気をして、不自由な生活をしている。ことをいわれていたのに、連絡を後まわしにしてしまいました。先日、突然、叔母の訃報がありました。 葬儀の後で、叔母が1人で暮らしていた家に行きました。別荘地ということもあり、周りは空家だらけで、こんな所で犬と叔母で暮らしていたんだなと、涙が溢れてきます。 生きている間に、叔母の存在が大切だったことに気付けず、会えないとしても、手紙等で連絡しなかったのかと、後悔で自分を責めて、涙してしまいます。 もう、叔母はいないし、何もできないですが、供養になるようなことはありますでしょうか? 私はこの後悔からどう立ち直ったらいいのでしょうか?アドバイス、頂きたいです。
中学時代からの彼氏が先日自死で亡くなりました。 私と彼は高校時代に1度別れましたが、1年程前に連絡を取り合うようになり、会ったりご飯を食べに行って恋愛関係に再度発展しました。 彼から生きるのが辛いという話をずっと聞いていたのですが、中学時代に付き合っていた時からよく言っていたので最悪の事態にはならないだろうと私は甘く考えていました。ですが、彼は自死を選びました。 彼からの最後のLINEは「何をしていなくても辛く死にたい」という内容のものでした。私はそれに対して「辛いよね」と返信したのですが、もっと真剣に説得していればこんなことにはならなかったのではないか、今でも彼がどこかから現れるのではないか、約束していた夏や冬の旅行へ行けば彼に会えるのではないか、などどうしようもない事が頭から離れません。 外に出るのも人と話すのも彼を思い出してしまって辛いです。
夫が亡くなりました。11年の結婚生活でした。闘病の末、眠るようになくなりました。本当につらいです。夫と二人、子供もいないので、唯一ほっとできる時間を過ごす人でした。自分のことより、私を優先してくれる人でした。今後どう生きたらよいか、ただパニックです。無事納骨までしたら、私はどうなってしまうのかと。
先月、夫が心臓発作で亡くなりました。 私は前日から出かけていて帰宅後すぐに気付かず(夫も出かけていると思ってました)夜になって自室のベッドで冷たくなった夫を発見しました。 検死の結果、その日の明け方に亡くなったようです。 その時の衝撃と別人のような夫の顔は、一生消えないと思います。 「亡くなったことも帰宅後すぐ見つけなかったことも、あなたが悪いんじゃない」と周囲の方は言ってくださいます。 夫とはいろいろありましたが、二人の生活になってから本当に優しくなりました。 なのに私は亡くなって半日以上も放置したのです。 両親のお墓参りもしない人でしたので、戒名は付けませんでした。 私の心の区切りとして、葬送はお坊さんに読経してもらいました。 今も毎日供養の気持ちでお線香は焚いています。 感謝の気持ちと、気付くのが遅れたことを謝り泣いています。 私は夫に施しを受けてばかり、夫は自分のことは後回しにする人で、多くを望みませんでした。 幸せな人生だったのかと思うことがあります。 酒と煙草をやめられず、最後の夜もきっと嗜んでいたと思います。 入院などして好きなこともできず亡くなるのも気の毒だけど、最後まで好きに過ごして突然亡くなる… 本人も未だに自分が死んだことに気付いてないのでは?と思います。 また最近は、私たちが嘆き悲しみ送り、お骨上げをしたのは本当に夫だったのか、それさえ信じられなくなりました。 まだ悲しみに浸っていていいと思いますが、自分のおかしな考えに自分自身呆れることもあります。 私の気持ちと関係なく、周囲は日常を過ごしています。 親しい友人にも、心の内を話すことができなくなりました。 子供たちのことを考え、新しくお寺付き合いをしない私がこちらに相談するのも烏滸がましいことですが、誰かに聞いてほしくて…すみません。
3年前、父が他界しました。 末期がんと宣告され、余命幾ばくもない事を知った時から、後悔を残さず出来るだけの事をしようと思い会いに行きました。(離れた所に住んでいたので頻度は多くなかったですが) 看病は、母がほぼ付きっきりでした。 今日明日で息を引き取るという時 病院側から、「誰か泊まりで居てほしい」という事で 前日が母、翌日が私が病院に泊まる予定でした。 最後にずっと夜通し母と居られた父は幸せだったと思います。 母と私、交代する時になって昼食を取る為、皆部屋を出ていきました。 父と私2人きりになった時、急に父が苦しみ出し、そのまま息を引き取りました。 父が亡くなる事は覚悟しており、心の準備も出来ていました。 ですが私は、父が最後苦しみ出した時、何も出来なかったんです。 せめて「お父さん」と、声を掛けてあげたり、抱きしめてあげたり、安らかに逝かせてあげる為に何かしら出来たと思います。ただ呆然として何も出来ませんでした。 苦しみの中、孤独に逝ってしまったのだと思うと、ずっと自分が許せないでいます。思い出すだけで、今も涙が止まりません。 父のお迎えが、どうして私1人の時だったのか。意味があるのか。と考えたら、どんどん落ち込みます。何か、仏様に罰を受けたような気になって仕方ありません。 ずっと側にいた母の時ではなく、どうして私1人の時にあんな事になってしまったのか。母でしたらもっと、最後の瞬間優しく父を見送ってあげられたんだと思います。 父はとても優しい人でしたので、私がこうして苦しむことは望んでいないと思います。それは分かってますが、自分を許せそうもありません。 仏様はどうして、よりにもよってあんな時にお迎えに来たのでしょうか。こんな何も出来ない人間一人の時に、お迎えが来るなんてあんまりです。 長々とすいません。 納骨の際お骨を頂いて、自宅に小さな祭壇を作りお供えしてあります。 この気持ちが少しでも楽になればと思っての事ですが、父に申し訳なかった気持ちを伝える方法、出来ることがあったら教えて頂きたいです。 よろしくお願いします。
我が子を亡くしたあまりの悲しさから、良くないことばかり考えてしまう時があります。 亡くなった子に対して、「どうしてママをこんなに苦しめるの?どうして先に死んでしまったの?」 などと心の中で言ってしまいます。 そして後悔します。 こんな事思う人間だから、子供が亡くなってしまうんだ。 きっと生きられなかったことを一番悲しんでるのはあの子本人なのに。 わかっているのに、どうしても気分が落ち込みすぎてどうしようもない時は、あの子に対して良くない事を思ってしまうのです。 その事に、すごく悩んでいます。 自分が嫌になります。
母との最後の日は本来コロナで面会禁止でしたが、個室だった事もあり、一日一緒にいれて、最後を看取る事が出来ました。 そこは良かったのですが、、 亡くなり際に、私は母に「死なないで」とか「一人にしないで」とか「頑張って」とか、言ってしまいました。 もう十分頑張ってくれたのに、、 感謝の言葉や、また会おうね的な前向きな事を言うべきだったと後悔しています。 私が後ろ髪を引っぱるような、未練がましい事を言ったから、母が成仏出来ないで彷徨っているのでは?ととても心配です。
介護施設で誤嚥させられ、意識朦朧、パルスオキシメーターの値が60%台のまま3時間以上、救急車を呼んでもらえず、無念の死を迎えるはめになった母、、 何故さっさと緊急搬送してくれなかったか未だに説明も謝罪もなく、毎日辛くて号泣している私、、 すみやかに救急車を呼んでくれなかった施設の看護師、車で10分の近場に住んでるのに駆け付けてもくれず、緊急搬送の指示も3時間以上出さなかった施設医、、 このあり得ない輩共にちゃんとバチは当たるんでしょうか?怒
病弱で長く不自由に過ごした両親を今年と去年亡くしました。 家族仲が悪くどうしていいかわからないまま、度々会いに行ける環境になった頃にはコロナで会えなくなっていました。 もうすぐいろいろ解除されるだろうから出来る限り行けるところに連れて行こうと励ましあってきました。 母の容体が悪化した頃、私は不倫相手の子を妊娠しました。その時、夢で 自分とも母ともつかないうめき声で「一緒にいこうね」と母の手を握っているつもりでした。 中絶手術のあと、どうしても眠れなくてなんだか妙な感覚で「闇に呑まれて自我がなくなった」とでもいうのか不安なような清々しいような思いで目をつむった時間に母の心肺が停まっていたそうです。 母が亡くなったことを不倫相手は気づいてると思いますが何も言わず家族サービスに出かけました。 いろいろ片付いたら、片付かなくても、いろんなことから逃げてきた人生なのだから人生ごと逃げて一緒にいきたいと思ってます。