分からないものを羨む心をどうにかしたい
私は、嫌いと言える人が父親しかいません。その父親も、私の考えを意味のないもののように扱う、という思考が嫌なだけで、その人自身が嫌いかと言われると微妙です。
それが普通と思っていたのですが、嫌いな人はいないって言うと驚かれ、数少ない嫌いを言えば安心されることが最近分かりました。
人に対する感情が希薄な人もいると、本で読んだことはあります。
けれど、周りが嫌いなものがあって当然という人しかおらず、何だか自分が、心のどこかが欠けた欠陥品みたいに思えてしまいます。
嫌いだけではなく、昔は何も長続きしなくて、好きって言えるものも無く、好きという心も他の人より薄いと感じます。(今は1,2つのゲームと、読書が好きとは思えます)
特に、人に対する好きがよく分からないのです。
友達は友達ならこう思って当然、と暗黙の了解を理解しているし実感もしている人が多いです。友達が嬉しい時は嬉しくなるとか、困ってるなら助けたくなるとか。
私にはそう感じることがほぼありません。
嬉しいことを報告されても、ふーんとしか思えないし、友達じゃなかろうと目の前で困って助けを求めてきたなら大体助けます(助けたい!というよりも、助けを求められた=助ける、という方程式に沿っている感覚です)。
ある程度、こうすれば普通に見えることを学んだので、人から優しいとか言われることは増えました。
けれど、友達のことで怒ったり、悲しんだり、それは全く理解できず、羨ましい気持ちも消えません。
そんな心の話をするとき友達は楽しそうで、その心に寄り添えるから親しくなれる、そんな空気があるように思います。
その時、私は表向きの共感しか出来ないのです。
言ったら、真面目ちゃん、良い人(笑)と言われてきました。
それはストレスだし嫌だったし、だからこそ、心のエネルギーを人に向けられる人が心底羨ましいです。
分かりたい、と無駄なことをよく思うのです。
ずっと分からないことを分かりたいと思うのは無駄だし、分かったところで何か変わるわけでもない。けれど羨ましい心も消えない。
そんなぐちゃぐちゃの心をどう扱えば静まっていくのか、分かりません。
有り難し 17
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