少しだけ幸せで、死ぬなら今だな、と思う。
少しだけ幸せで、死ぬなら今だと心のどこかで思う。共感されない。仏教で解釈できるでしょうか。
今、仕事が少し分かり始め、欲しいものややりたいことがある。楽しいこと、大切にしたいこと、少しずつ好きな人たち。欠片が積もって私は前より自分のことを知っている。
幼稚園の頃、自分だけが箸の持ち方を知らないことに愕然とした。私は何も知らず、何も出来なかった。それからずっと、何かを覚えるために生きてきた。逃れるために。
ある時、所詮地獄なのだと思うと、楽になった。ましな地獄にしようと思った。辛かった経験は少し報われ、褪せて。鈍にならないうちに。
怖いのは、地獄だと思って耐えている場所が天国だったのだと知ることか、本心はどこかの天国を夢見てそんなものは無いと証明することか。川底に光る宝物を拾い上げた時、それはまだ宝物か。まだ見ぬ幸福を恐れている。
今なら、鮮やかな走馬灯と未来の淡い幸せを夢に見て、眠りにつける。
正気に戻ることを恐れている。幸せを痛み止めにしてごまかしごまかし生きている。
ふと、正気に戻る時がある。そしてこれから先、何十年も生きる。このまま効き続けるとは限らない。過剰に求めてしまうのではないか。今よりずっと、幸と不幸に翻弄される。服用しすぎて、自分を失っていることすら気づかなくなってしまうのではないか。
いや、実際は、幸せを服用するたびに、正気に戻っていっているのではないか。これまでは無心で生きてこれたのに、どんどん脆くなる。
痛みを薄めることでしか保てないのに、痛みすら自分の一部で、私は自分を得るために生きてきたのだ。今ならまだ、自分でいられると。
考えすぎだ、なんとなくでいいよと言われた。考えすぎることは根本的な問題ではない。なんとなく生きられる人は、本質として生きることの幸せを受け入れられる人ではないか。過去であれ、未来であれ。死ぬ不幸とは相対的に。次の瞬間に痛み止めが切れることに常に怯えたりしない。
生きる不幸から逃れる必要もなく、生きる幸せが恐ろしいと思う、死ぬことの不幸だけが人並みな私は、何のために生きればいいのですか。
有り難し 13
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