この世は“地獄”なのでしょうか…?
いきなり過激なタイトルで申し訳ありません…。
私は常々このように思っているのです。
これほどまでに厳しい世の中で、「生きる意味って何…?」と
多くの方が感じているのではないでしょうか?
病気などの体の不調、経済的なこと、家族や身近な人との死別、仕事…。
この世では、次から次と試練がやって来ますよね。
これほどまでに大変な世の中で、我々は何を学ぶのでしょうか?
また、散々この世で苦労をし、それらの“試練”のようなものを突破した人しか、
あの世へは行くことは許されないのでしょうか?
是非、教えてください…😿。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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唯識
さやさま
仏教では、唯識という思想があります。
これは外界の世界を捉える自分の心のありよう(認識)次第により世界は成り立ち得ていると考える思想です。(もちろん、だからといって外界の世界が何も存在していないとするわけではありません。外界の存在は縁起して成り立ち得ています。但し、実体としての存在ではなく、一切は空としての成り立ちとなります。)
そして、この認識に大きな影響を与えているのが、業(カルマ)、無明(根本的な無知)、煩悩というものになります。
業、無明、煩悩はそれぞれで皆異なるものであります。
ですから、同じ世界を認識していても、それぞれで捉え方が違うものとなっています。
極端に言えば、この世が極楽と捉えられているものもいれば、地獄、餓鬼の世界と捉えているものもいる、更には、その時々における業、無明、煩悩の微妙な差異によってもそれぞれで異なって捉えていると言えるでしょう。
一方、業が完全に清らかで、無明・煩悩が無くなった聖者においては、この世は極楽、浄土と映えることになります。
もちろん、輪廻の衆生、人間の99.99999%以上の者たちにおいては、業、無明、煩悩をほとんど対治できていないため、やはり迷い苦しみの世界としか映えてこないものとなります。ですから、そのように捉えられていて当然なところとなります。
そして、業、無明、煩悩に対処せずにそのままこの生を終えれば、その因縁に従って、やはり、同じように迷い苦しみの(と認識してしまう)世界をめぐり続けることになってしまうのであります。
仏教は、業、無明、煩悩を対治していくための教えとなります。智慧と福徳(功徳)の力を養っていくことで対治を進めることができるようになります。
是非、仏教を学び実践していって頂けましたら有り難くに存じます。
合掌
質問者からのお礼
お忙しい中、お時間を割いてご回答いただだき、本当にありがとうございました。
少々難しい内容で、自分はあまり頭が良くないので、理解するのが大変だったのですが、おっしゃていることはなんとかわかりました。この世では、それらの試練に対処し、闘って行かなければならない、ということですね。
誰もがこれは大変なことでしょうが、それぞれに課せられた使命やお仕事のようなものを、やっていく…。辛いこともありますが、良いことだってある…。そういうことかもしれませんね。
仏教を学ばせていただければ、それらがより理解できるかもしれませんね。考えてみたいと思います。
本当にありがとうございました。