自分はとある臨済宗建長寺派の長男です、 前々から虐められたことや時世も相まって弁護士になりたいと思っています。 反対に親は何がなんでも修行期間3年を経てからであるなら法科大学院に行っていいと言われて、もし先にやるなら縁を切るということです しかし自分は肉体の衰えや時間は取り戻せない。22から3年修行して25歳。そこからゼロから始まる勉強についていけること無理ではないかと思っています。その上に現住職が死んでしまってはどう足掻こうが住職になるしかない。 法科大学院へ親を捨て、家を捨て覚悟を決めて入ることが1番なような気もしますが罪悪感で、そのように考えると死にたいです (学費は奨学金等でギリギリ賄えそうです)
私は仕事のサボり癖が抜けず長い間悩んでいます。そのため様々な方に相談させていただきいろいろなアドバイスをいただきました。結局は問題はあまり解決していませんが、こんな相談を聞いていただいた方皆に感謝しています。 さて、この悩みを一度だけお坊さんに相談させていただいたことがあります。妻が昔、評判のよいある高名な僧侶に相談をしたことがあり、その伝手で私もお話を聞いていただけることになりました。 ただし、すでにかなりご高齢であったため、そのお寺に連絡した時点では残念なことにその僧侶の方はお隠れになられていて、跡を継いだ和尚様がいらっしゃいましたので、その御方にお話を聞いていただけることになったのです。 そのこと自体は大変有り難く、またその和尚様が比較的若いとはいえ不満を覚えたわけでもないのですが、しかし、やはりモヤモヤとするものが残ってしまったのです。 はっきり言って、20年近い間に多くの人に相談しておいて未だに解決しないものは、誰に相談しようがどんないい方法だろうが到底変わらないだろうことは感じつつあります。それでも、人生経験が豊富な方や、長年多くの人の悩みに向き合って来た方であれば何かあるのではないか、という考えが頭を離れません。 自分は有能な人や名声のある人に弱いのはわかっていて、それだけでは必ずしも意味はない、と言葉では頭に入れたことがあるものの、本当の意味では身についておらず、すごい人についていきたい、という願望が抜けません。 当時はありませんでしたが、このウェブサイトではたくさんの僧侶の方が様々な悩みにご回答されていて有り難く思います。私自身は仏教の業界にはまったく疎いのでどなたが高名か、などといったことはわかりませんが、しかし仮に評判のよい高名な僧侶の方がいたとして、そのような御方に相談することは意味があることと思えますでしょうか?
私は難病や障害がありあまり長く生きられないのですが最後に自分が何をしたいのか考えた時《僧侶になること》でした 近くのお寺や修行をさせて頂ける場所を探したのですが難病なので受け入れが難しくお断りされ、ある時、曹洞宗の住職の資格を持つ病院の先生と出逢い私の気持ちを伝えると 「こんなに大変な病気で弔いなどの志があるなら修行などしなくても十分です」 とのアドバイスを頂き、数年前から完全無料にて生活保護者さん、全国の動物を喪った方から依頼を受けて葬儀や法要をしています。(上記の先生から指導を受けて教えてもらったりしています) 活動資金は市から障害者手当てを毎月三千円頂けるので、それでやり繰りし御遺族様からは1円も受け取りませんが修行もしておらず得度も受けておりません… 私の活動は法的に違法になるのでしょうか? また仏様や修行や得度をきちんと受けられた方から見れば罰当たりに該当すると思われますか? 御教示頂けると助かります。
我が家の菩提寺のお坊さんのことについて相談したと思います。 尼さんで、嫁ぎ先の普通の家庭(サラリーマン家庭)に住んでいらっしゃいます。 お勤めの時にお寺へいらっしゃるようです。(お寺は先代がお一人で住まわれていらっしゃいます) 年齢(70歳前後)を理由に2~3年前よりお彼岸廻りもお盆廻りもされなくなりました。 私は昨年、息子と義父を見送りました。 枕勤めもお通夜も、遺族でと言われ、葬儀のみ来ていただきました。 葬儀の後、初七日含め49日までのお勤めをまとめてして頂きました。 息子は49日と初盆をまとめてしました。 まとめて、と言うのはお坊さんから言われてのことです。 義父は今年が初盆になりますので、日取りのお電話をしたところ「初盆されますか?」と言われ「出来ればしてあげたい」と伝えたところ「どうしても、と言われればやらない事も無い」と言うような反応でしたので無理なお願いするのも、と引き下がってしまいました。 最近は簡単にまとめて、とか、省略される方もいらっしゃると言うことは聞いたことがあります。しかしながら、お仏壇のある家庭に生まれ育ち、嫁いだ今の家庭もお仏壇があり、ずっとお世話させていただいてきました。熱心な信者とは言えませんがそれなりに信仰心はあるつもりでいます。 また、遺族が簡単に済ませたいと思うことの否定の気持ちはありませんが、遺族がきちんとしたいと思っているのにお寺さんの方から簡単に済ませる事への不満が少なからず沸いてしまいます。 息子のことは、出来ればひっそりと、と言う思いもあり私達が供養してあげればいいとも思っています。ただ、義父は「お葬式は派手にしてくれ」と生前言っていたこともあり、お寺への寄付なども他の檀家さんよりも多くしてきたりと言う人でしたのできちんとすることを望んでいるように思っています。 これからもお付き合いしていかなくてはなりませんし、不信感など持ちたくはありません。浄土真宗はお盆のお迎え(?)などはいらないとも聞いたことはありますが、その辺りのことも含めてご教授いただければ幸いです。
インターネットで仏教布教や衆生救済にご尽力されているお寺様も多くなってきている昨今、祈祷寺院は世間の目に触れやすくなっているかと思います。 インターネットでの僧侶の露出が増えた結果、従来の檀家制度では考えにくかった、「どのお坊様・お寺様と懇意にするか選択する」ことが可能となっています。 メリットがある一方で「自称・僧侶」という僧籍を持たない、本山に属さない等偽物の僧侶に騙される危険性も否定できません。 (中には、自ら「破戒僧」と主張する方もいらっしゃいますが。) また、友人等から「お寺に行こう」と誘われたら新興宗教団体だったという話もききます。 お寺様・僧侶様が、本物かどうかを確認する方法というのはあるのでしょうか? 神社であれば、神社庁に属しているかどうかである程度の判別はつくと思うのですが(単立は別として)、お寺にはそういった統括組織等はありますか? よろしくお願いいたします。
お坊さんを怒らせてしまいました。 とある悩みについてお坊さんにメールしました。 悩みやすい性格であるため、何度もメールをしては、アドバイスをしてくれていた方でした。 その方から先日、アドバイスとともに、「1円でもよいから納めてください」「それかこれからも友だちでいてください」とメールがあったので、 私は「こちらこそ、これからも友達でお願いします」「いつもありがとうございます」と打ちました。 そしてしばらくして、新たな悩みについて相談したところ、 「なぜ1円も納めようとしないのか」というメールの返信が来ました。 「1円でもよいから納めてください」「それかこれからも友だちでいてください」の後者を選んだ理由は、 納め方がよくわからなかったからなのですが、これについてかなり怒っており、見た瞬間震えてきてしまい、メールを削除し、 今現在学業で忙しいから今度でよろしいでしょうか、と返信しました。 すると、この期に及んで言い訳するのか、とメールが来ました。 その前は、あなたの悩みやすいその性格が全ての原因だ、的なことも書いてありました。 それから返信はしていません。 ただ、信頼していた方だけにショックですし、納めることが義務だとは思いませんでした。 若干トラウマになりそうです。 この体験とどのように向き合えばよいでしょうか。
こんばんは。 大変申し上げにくい質問をさせて頂きます。 私は仏教について関心があり(歴史や文化財、教義etc)、同世代の僧侶の方と語り合いたいと希望しております。 ご縁があればその方と交際したいとも思っておりますが、最近、僧侶・住職の元夫から激しいDVを受けて離婚したいうSNSやブログが数多く見られるようになりました。その女性達が多宗派の関係者に離婚の経緯を話しても、「寺ではよくある事。珍しい事ではない」と言われたそうです。 私自身も仏教系大学を卒業しており、教授や講師は僧侶や住職の方ばかりでしたが、講義終わりに質問に行っても、怒鳴るように返答されたり、挨拶をしても無視する教授陣も数多くいました。 僧侶や住職という方々には、上記の様な人間が多いのでしょうか。 ならば、出会いは諦めた方がいいでしょうか。
外面的なことですのでもしかしたら失礼かも知れないのですが、よろしければ教えてください。 浄土真宗のお坊さんは坊主頭じゃない人も多いのは知っています。 ただその他の宗派の人でも一律にスキンヘッドというわけじゃなくて、割と長めの丸刈りや単に短髪の人など多様性があるように感じます。 大学時代の友人が日蓮宗の寺の子で少し前に出家したのですが割と長髪です。修行に入る時は剃ったみたいですが。そのお父さまはスキンヘッドではない丸刈りです。 各宗派で戒律とか内部規定みたいなものが異なるんでしょうか?
先日父が亡くなりました。 それまで菩提寺がありませんでしたので、親戚と同じお寺にお願いしました。 葬式についてよくわからず、葬儀の当日、お経をよんで頂く直前に控え室で初七日までのお布施をお渡ししてしまい、「それはおかしい」と危うく返されそうになりました。 その事があったため、母はお坊さまに対してビクビクしています。 葬儀屋さんから「お布施は後日お渡しする以外にも当日葬儀の直前にお渡しすることも多いですよ」と聞き、そうしましたが…。 後から聞くと、お坊さまもお怒りになった訳ではなく「本来なら後日ゆっくり渡してくれて構わない」という意味でそう教えて下さったのだそうです。 しかし、その一件のせいで母は必要以上にお坊さまに怯えていて、どうしたものかと思っています(私自身はざっくばらんな方という印象です) 今後どうしたら、母はお坊さまと良い関係が築けるでしょうか? やはり直接おたずねするのが一番でしょうか? わからない事が多く、周りに聞ける人がおらず、正解もないようなので悩んでしまいます。 それから、よくわからず父の法名に院号をつけなかった為、「以前亡くなった親戚に比べ文字数が少なく見劣りする」と母が後悔しています。 一般的には院号を付ける方が多いですか?少ないですか? 今から院号を付けて頂くのは可能ですか? (ちなみに、我が家は浄土真宗です)
長文を失礼いたします。 私の母が亡くなった折、私の父が私の母の永代供養のお願いのためにお寺へ出向いた折、私からいくつか住職に質問をいたしました。 「私、葬儀社の方にかなりお世話になりまして、で、その方たちは亡くなった方に対して一礼を欠かさず、敬意を尽くしているようにみられました。 私はお経の意味などはわかりませんが、この一連の(お経をあげる式の)動作中に、何かそうした「敬意を表す」ような行動は含まれるのでしょうか」 といった内容のものです。その住職の言動などに、どこか投げやりっぽい感じを受けましたもので。 住職の回答ですが、端的に「お経をあげることがこうした敬意になります」というものでしたが、なんとなく私は納得できませんでした。 続けてあげていただいたお経の意味をおたずねして、それについても説明していただきました。 「納得いただけましたか」という問いに対して、私は「あとは個人個人のとらえ方になってくると思います」みたいなことを言ったと思います。 その直後にご住職が激高しまして・・・。 「お前、俺のあげるお経より葬儀社の人間のほうが礼を尽くしてるっていうのか、そうなら全部葬儀社の人間に供養してもらえ!」 「俺の方が(葬儀社より)上にきまってるだろ!」 「こっちは商売でやってるんじゃないんだ!お前がそんな態度なら金は返す、そのかわりこの戒名は返してもらう」 「●●(父の名前)とのご縁もあって、特別に永代供養という形をとったが、こんな態度をとられるとは思わなかった」 私も「それは違う」「誤解だ」と色々言いましたが、聞き入れようとはされなかったように見受けられます。 最終的には「お前の言うとおり誠意なんてのは個人個人のとらえ方だろうから、それならお前が納得する寺を探せ!」と怒鳴った後、住職は席を立って退席されてしまいました。 私自身「お経なんて何の役に立つのか」といった気持ちがありましたし、そうした気持ちを見透かされていたのかもしれません。 それにこうした質問は「場」にそぐわないものでしょうし、私のような気持ちを持つ人と接する場合、かなり不愉快であっただろうとも思います。 しかし、あそこまで面罵されるとは思いませんで・・・。 二人で平謝りしたことでとりなしを得ましたが、個人的には今後の事も考えています。ほかの方のどんな見解でも聞きたいです。よろしくお願いいたします。
死後の世界はわからないものだとこちらでも他質問でいくつか拝読いたしました。 現代では亡き親族の供養の仕方は様々かと思います。いろんな考え方があって当たり前だと思うのに、いざ自分のことになると気持ちがついていきません。 私は名家出身とかでは全くないですが、両親はあるお寺の檀家として必要だと思うことはやってきておりました。父は亡くなっております。 私自身、それが普通だと思って生きてきまして、嫁いだら私の実家のお墓に入れなくても、宗派は違えども、嫁ぎ先のお墓・御先祖を大切にし、供養や法要等やるものだと思っていました。 しかし、主人の実家では檀家などの概念がありません。そのような考えがない方も現代にはいらっしゃると分かってはいます。 こちらでも、葬儀は必要なのか、法要は必要なのか、お墓は必要なのか、、、などと、類似の質問はあるかと思います。 ただ、義祖父の亡き後、葬儀はお坊さん宅配便…法要は最低限…。なんだか寂しいような、理解できない気持ちになってしまいました。 ですが、そのときに来ていただいた和尚さまには私としては感謝しかありません。 私自身、正直仏教について詳しく存じている訳では全くありませんのでこのような質問をさせていただくこともどうかとは思うところもあります。 ただ、気持ちの置き所をどうしたら良いのかわかりません。厳しいお言葉でも構いません。何かお示しいただけたら幸いと思い、質問をさせていただいました。よろしくお願いいたします。
こんにちは、托鉢や乞食に関して、周囲の理解を得たいです。 私は地方都市に住んでいるのですが、街中でよく托鉢を行う人を見かけます。 お財布にゆとりのある時には小銭程度ですが、托鉢を行う方にお分けする事もあります。 …しかし、基本的に一緒に居る連れにはいい顔をされません。 「仏教には喜捨という概念があって、捨て去る事を有り難いと思う、そういった機会を与えてくれる事に感謝するっていう考えがあるんだよ」と説明はするのですが、あまり納得してもらえません。 私は小額で人の為になれれば嬉しい、そんな程度の考えで托鉢をなさる方に施しをします。 ですが、連れには大体の場合、「ああいうのはホームレスとかが僧侶などに変装してやっている。何も知らない人の善意を踏みにじる行為だからそんなものに手を貸すなんて」という具合の反応を返されてしまいます。 連れの言いたいことはわかります。ですがそもそも喜捨に関しては相手が誰だろうと関係ないものと認識しています。 しかし、それを連れに言ってしまうのまるで大事な連れを分からず屋扱いしてるような言葉になってしまいそうな為、いつも「小銭でも喜ぶんだからいいだろ」と終わらせます。しかしその言葉もまた托鉢をしてる方を、私が悦に入るための道具扱いしてるようであまりいい気分ではありません。 ところで私は敬虔な仏教徒ではありません。 人の為にどうのというのも、昔やっていたボーイスカウト活動にて「困っている人を助ける機会は善行を積む機会を頂ける」という考えを持っているからです。(この辺りは喜捨と似ているかもしれませんね) そのせいもあって、あまり詳しい仏教的な教えなどは語れなくもあるのです。 長文乱文になってしまいましたが、要は人は助け合うべきものであり、自分もいつホームレスの方々のようにモグリの托鉢や乞食をせねばならなくなるかわからない以上、誰かに何か出来る時はしておくべきだと思うのです。 こういった考え、仏教的な価値観を持たぬ身近な人に、角を立てずにわかってもらうにはどうしたらいいでしょう? わがままな話ですが、友人は大切なので「アイツは変わり者だ」と思われて距離を置かれるのも、「なんだか面倒くさいヤツだ」と思われて距離を置かれるのも嫌なんです。 支え合いこそ人類の本質にして美徳、そして自己のためでもあるのだとただわかってもらいたいのですが……
以前とある聖職者(?)が言っていました。「宗教家は失業すればいい。失業するために頑張っている」 つまり必要とされなくなるために、存在しているのだと。 仏教離れが進みつつ、仏教以外にも悩みを解決する智慧が豊富にある今の時代、お坊さんはどんな気持ちで活動しているのでしょうか? 仏教を大切にすることと、僧侶として生計を立てるのは別であり、どうしても資本主義とは相容れない部分もあるかと思います。そのあたりは、どうお考えなのでしょうか?そこがわかると「宗教とカネ」という悩ましいテーマの理解が進む気がしております。 個人的には、未来の職業僧侶は、少数精鋭になるかと考えています。作家やユーチューバーのように、一部の人が活躍し、その他は趣味のような活動になり、狭き門になるのかと。 率直な意見をお聞かせ下さい。よろしくお願い致します。
お目通りありがとうございます。 私は精神科に通っていて、メンタル治療の本をよんだり、あまり精神科に関わらない人よりは、その道の知識がほんの少しあるとおもうんですが 前々からお坊さんと精神科医は似ているなぁ と感じています もちろん薬を出される出されないという点は、ハッキリちがいますが、、 これには少し理由があるんだろうなぁ と思ってます ご教示ください
お坊さんは仏様とどんな関係になりますか? 仏様の代弁者のような存在になるんでしょうか?
ときおり地方に巡業してくるお坊さんがいます。寺を持っておらず、新聞広告で相談会と称して相談者を募り、相談料は1回につき2000円だそうです。 知人が仏事の相談に行きました。相談事に対してはまともで納得できる回答をもらえたようですが、話をしている最中「様子が変。取りつかれていますね。」とか「あなたは〇〇してきたでしょう。」とか言ってきたそうです。供養料金も出してきたそうですが供養の強要はされませんでした。 お坊さんは「見えたもの」を全て口に出し聞いてもいない人に教えてくるものでしょうか。そしてこのお坊さんは「ちゃんとした」お坊さんですか。
夫の実家に帰省したのですが、突然の雨でずぶ濡れになってしまいました。 靴の中も少しだけ濡れてしまい、そんな濡れた状態でサービスエリアのトイレとか、行かないといけなくて…。 帰省中なので靴も洗えない状態でした。 次の日靴の中は乾いたのですが、乾けば気にしなくていい事なのでしょうか? お坊さん達はどう考えますでしょうか? 濡れた状態でトイレとか歩いたのが、気になってしまいます…。
お正月に旅行をしたのですが、突然の雨で、ずぶ濡れになってしまいました。 靴の中も少し濡れてしまい、そんな濡れた状態で外のトイレとか、行かないといけなくて、旅行中なので靴も洗えない状態でした。 今現在6日経って、靴の中は乾いたのですが、乾けば気にしないものでしょうか? 濡れた状態でトイレとか歩いたのが、気になってしまいます。 お坊さんは気にしませんか?