hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

「お坊さん・僧侶全般」問答(Q&A)一覧

病んでしまった人が住職になれるだろうか?

私は寺の長男に生まれました。が保育園のころから電気が好きで、小学校1年の時の将来の夢が最初は電気屋さんになりたい。でした。ですが、住職である父に「電気屋さんがお坊さんはできないけど、お坊さんが電気屋さんはできるんだよ。」という今考えるとわけのわからない理屈で言いくるめられ、将来はお坊さんになりたい。と書き換えさせられました。かといって仏教が嫌いだったわけではなく、児童向けのおしゃかさまのでんきを友達からもらって読んだり、生まれて初めて映画を見たのが井上靖の天平の甍(鑑真さんの話)だったりしたのもそのころでした。小学5年生の時に東京の増上寺で得度しました。秋葉原に行けるからでした。生まれて初めて飛行機に乗りました。その後中学1年の時に初めてパソコンを買ってもらい、ゲームやプログラミングに夢中になりました。MSXでしたが、パソコン・モニター・データレコーダ・漢字ROM・プリンタと買いそろえてもらいました。中学2年の時に独学で国家試験を受けて、電話級アマチュア無線の免許を取りました。開局したのは高校になってからでしたが、無線も好きでした。高校では科学部物理班でアマチュア無線とパソコンに夢中でした。将来は工学部に進んで風力発電の研究をしてエンジニアになるのが夢でした。しかし文理選択で寺の後を継がなくてはなというプレッシャーに負けてしまい、文系を選択したのでその道は絶たれました。そのころひろさちやの仏教大百科を読んで、浄土宗は大正大学か佛教大学に行くことを知りました。親は大正大学に行けとは一言も言いませんでした。そして大正大学には入ったものの授業に出たことはないです。サークルにばかり逃げていました。サークルがなかったら、大学を中退していたかもしれません。テストだけは受けていたので単位は取れました。(何個か落とした単位もあるが再取得。)大学在学中に加行をなんとか御え住職資格を取り(風邪で3日休んで下山寸前だった。)そのあと大本山にある修行道場で1年間更に修行しました。大学在学中から心が病んでいて医者にかかっていたので、修行道場も医者に通いながら勤めました。修行のほうが寺にいるより楽しかったからです。町寺の法事葬式で回っている感じが嫌いでした。でも仏教は好きという矛盾を抱えていました。心の病気が酷くなって私は今は寺を離れていますが、私にはもう住職は無理なのでしょうか?

有り難し有り難し 10
回答数回答 1

法事の僧侶を変更したいです

先日亡母の一周忌法要の読経を所謂檀那寺に依頼して執り行いました。葬儀の時と同じ僧です。まず、亡母の法名を把握されていませんでした(法名はこの僧がつけお布施を支払っています)読経の前に長々と浄土真宗のPR、報恩講の内容、他宗の批判、自宅で本尊を祀っているかなどの遺族への質問等を約1時間ほど話してから読経されました。阿弥陀経、観無量寿経そして正信偈。70歳を過ぎた高齢の為だけとは思えない非常に変わった節回しで終始下手な読経でした。そして、自らが日本仏教会の役員であると言ってニヤニヤと自慢話までされていました。時間にして1時間半以上でした。  昨年の葬儀の際は、枕経は忙しいのでしません!と言われ、出棺の際にも次の葬儀の予定があるので失礼しますと言って帰られました。当然、火葬場では僧侶による読経なしの見送りでした。他のお見送りされるご遺族の方には寄り添ってらっしゃる僧侶ないし牧師様のような方がいました。  また、私が「本来は七日ごとの法要(二七日〜四七日)をお願いすべきですが、一般の通例として遺族がそれぞれ自らの気持ちで念仏したいが、三十五日と一周忌の際は宜しく御願い出来ますか?」とこの住職に尋ねると、「お前は法事をサボるのか?」と言われ、サボる訳ではないが、、と伝えても「サボるんだろ!」と恫喝されました。そう言われても一周忌はお布施もきちんと致しました。当たり前のことですから。  この住職とは祖母の頃からの付き合いですので、存命の父の考えも尊重して我慢してきましたが、親族から「三回忌は(違う僧侶を)考えた方が良くないか?」との意見も出ております。  そこで、質問ですが、①法事の際、檀那寺から違う僧侶へ変更は可能でしょうか?②この住職の言動で傷つく方が現れないように世間に知らせてあげる方法はないものでしょうか?法事の会場のスタッフの方からもあのお寺さんはかなり特殊ですね!と言われ、業界でも有名のようでした。  大変長々と拙い文章で申し訳ございませんが、宜しくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 19
回答数回答 2

再び迷っています

以前に得度について質問したものです。 あれから、自分でも色々調べてみました。まず、わたしのような者の師僧になって下さる僧侶の方に深く感謝します。 費用についても、ほぼ工面できます。 僧侶になった後、入りたいお寺も、あります。(実家のある田舎のお寺の僧侶が事件を起こし、懲役刑となり 解任となったあと五年も住職不在です。このままつぁは廃寺になりそうなので、これは大変と、墓は都会にうつしましたが、いまは早まったかなと後悔しています。子供の頃から親しんできたお寺なので、もし、お許しがあればそこに入りたいです)自分一人の生活費は、なんとかなります。過疎の限界集落で若い人はほとんどいませんが、それでも残って生活している知り合いのおじちゃん、おばちゃんの力になりたいのです。(平均年齢は90近いです) で、今日の相談なのですが、いろんなお坊さんのお話を聞いているうちに、お坊さんの世界にも権力闘争とか、色と欲にまみれている方とかが、いるようです。高名な僧侶の方の耳を疑うようなスキャンダルも耳にしました。 そんな深い闇があるとは!わたしに、つとまるのか!ここに来て少しびびってしまいました。 もう、師僧(お墓を移した都会のお寺の住職さん)に法名をつけてもらっているのですが、自分のこころを整えるために、修行を進めるのを少し待ってもらっても良いものでしょうか。 つけ加えると、中学生の頃から仏道や出家への憧れがありました。菩提寺の住職さんといろいろと話しているうちに「得度してみるかね」「はい」とお答えしました。いろんな条件も整っているので、周りからの異論はありませんが、以前した質問のように仏教界には、ほとんど無知なのです。実情を見聞きして、少し気持ちが萎えてきました。

有り難し有り難し 11
回答数回答 2

私度僧としての托鉢は駄目でしょうか?

3年ほど前にスッタニパータを読んで以来仏法の素晴らしさを知り、日に何度か座禅を組むようになりました。けれど、いつまで経っても睡魔にすら打ち勝てず、煩悩もちっとも減らず(減るものでもないのでしょうけど)、日々の生活に虚しさが募るばかり。主要な大乗経典も大方読みましたが、知識として蓄積するだけで、実行が伴いませんでした。 私は早々に聖道を諦め、凡夫であることを受け入れて阿弥陀如来に帰依しました。 弥陀の誓願の有り難さをひしひしと感じながら、日々念仏を称えています。 ただ、どれだけ念仏を称えても、日頃の生活の内で多くのことに囚われ、信仰を忘れます。 私のように下生下品の愚人は、在家のままで信心決定などあり得ないのでしょう。 いずれは遍歴して、そこで念仏申すだけの路傍の石のような身でありたい。 そうしてその姿が、誰かの仏縁になるかもしれないという淡い希望もあります。 勝手に出家して、私度僧として托鉢で暮らすのはお寺に迷惑になるでしょうか? 布施がなかったり、病に掛かったりで死ぬこと自体は全く怖くないのです。 ただこの何処へ向かうとも判らない迷った心のまま、ふと死を迎えるのが恐ろしいのです。 決して一時の考えではありません。 どうか智恵をお貸し下さい。

有り難し有り難し 15
回答数回答 1