ご真言には、大呪、中呪、小呪があります。私は、不動明王様のそれしか存じないのですが、この使い分けはどうしたらいいでしょうか?
聖天様を信仰しております。 毎日、聖天様のご真言千反をお唱えしております。 聖天様は自宅に仏像をお祀りすることは絶対にいけない(十一面様も軽くお祀りすることもよくない)と聞いております。 聖天行者様以外が、聖天様のお姿を見ることはよくないとも聞いており、ネット等にある仏像や仏画等も見ることはよくないとも聞いております。 毎日聖天様のご真言を唱える上で、仏像も画像等も意識におかず、お札のみに対して、聖天様をどのように意識して真言を唱え続ければ良いのか、どのように聖天様に意識を繋げていけば良いか、どうしても体感的にわかりません。 どのようにすれば良いのでしょうか? また、ご真言も含めお経も、本来は阿闍梨様にお授け頂いた上でないと、密教として越法罪になると聞きます やはり、ご真言を知っていたとしても、正式に阿闍梨様にお授け頂くべきでしょうか? もうひとつ、事情があり、ふたつのお寺の聖天様のお札をお祀りしているのですが、やはり、別々にご真言をお唱えした方が良いものでしょうか(おひとつは単身の聖天様、おひとつは双身の聖天様、また、おひとつの本地は十一面様、おひとつの本地は千手様になります) 以上、長々となりましたが、ご指導のほどどうぞ宜しくお願い致します
不動明王様への祈願はご真言を頂き、ご縁を頂くまではお力添えを自ら祈願しては いけないとある本で読んだ事があります。 不動明王様のご真言を頂くにはどのようにすれば良いのでしょうか? またお参りはどのようにすれば良いのでしょうか?
真言についてお教えください 真言を唱えると御利益がある、または真言はやたら唱えてはいけない(ネット情報)などと言われていますが。 実際、真言を唱えることに どのような意味があるのでしょうか。 自分が坐禅会でいつもお世話になっている和尚様は 気分が落ち着かない時 地蔵菩薩の真言を唱えることがあると言われていました。 坐禅会に参加するようになり3年経ちましたが仏教に興味が湧いて参りました。 よろしくお願いします
いわゆる霊感だとかそういうものは私にはよく分からないのですが、時折、背中が冷たくなったり、気分が悪くなったりします。(肉体的には健康で問題ないので、病気の可能性はないかと思います) そういう、どうにもしんどい時には光明真言を唱えると良いと、以前知り合いからアドバイスされました。 当時は慣れない言葉に噛まないようただ唱えるだけでいっぱいいっぱいでしたが、最近では「ただ唱えるだけでいいのだろうか」、「これで合ってるのだろうか」、「どういう心持ちで唱えるのが一番いいのか」、そういうふうに考えてしまいます。 光明真言は、ただ一心に言葉に集中して必死に繰り返し唱えるものでしょうか? それとも穏やかな気持ちで唱えたほうが良いのでしょうか? もしあれば、どういった心構えが必要なのか、教えていただけたらと思います。
真言宗の聖天様の勤行を毎日しております。お寺の勤行に入っていなくて、私が勝手ながらネットで拾った勤行の以下の真言はお唱えしてもいいのでしょうか? 勿論勝手にいれたのだから駄目なのでしょうが気になっております。 特に悦與と調和の真言の意味が知りたいのですが。 1 召請真言 オン ハキュラシュダ デイバタ ヤジャク ソワカ 2 供養真言 オン アボキャ ホジャマニ ハンドマ バジレイ タタギャタ ビロキテイ サンマンダ ハラサラ ウン 3 悦與 オン ハラウンマニエイソワカ 4 調和 オン シャトロ ハラマタニエイ ソワカ 以上です。 何卒ご教授頂ければ幸いです。
摩利支天様を個人的に信仰しています。 そこで毎朝摩利支天様の真言を唱えようかと思っているのですが大丈夫でしょうか?
宜しくお願い致します。 光明真言は何度も聞いたことがあったのですが 素晴らしい意味を持つ事を最近知りまして 毎日の習慣にしてお唱えしたいと思い 回数や合掌の仕方などは調べたのですが 家でお唱えする場合、こうした方がいいなど ありますでしょうか? 声にださなくとも心で呟く事も良いのでしょうか? お教えいただきたく宜しくお願い致します。 ふとした時に頭の中で流れる程、耳に付いております。
初めて相談させていただきます。 小学生の頃、母に連れられて、毎月のように登山に連れて行ってもらっていました。 どこのお山だったか覚えていないのですが、頂上に一体の仏像…だと思います、焔を背負って雄々しく力強く立つ、小さな木製の像がありました。 その像を仰ぐための真言があったのですが、それが強く記憶に焼き付いていて、今も忘れられません。 なにかご縁があるのだろうか、と考え、自分で調べたこともあるのですが、本は大量すぎ、ネットでそういう知識を求めるとアングラへ行きそうになり…。もしどなたか答えをお持ちでしたら、どの仏像さまを仰ぐための真言なのか、お教えいただけないでしょうか? おん ばざらけん ばざらや たらまや めいしやてい そわか です。もし間違いがあったら、そこも訂正してお教えいただけると嬉しいです。よろしくお願いします。
タイトルとは違いますがどの宗派の方でもokです。阿弥陀如来と観音菩薩、勢至菩薩、釈迦如来、文殊菩薩。以上五柱の真言の漢字表記を教えてください
初めまして、私は仏様を側に感じたい時やお寺で参拝する時に印を結び、真言を唱えている破戒するヒトと申します。 私の結ぶ印や唱える真言は師に習ったものではありません、ネットや書籍で調べたものです。 本当は出家をして師に習うのが一番だと言うのは分かりますが、どうしても人が苦手で集団に溶け込んで修行する自分が想像出来なくて、独学でまったりと学ぼうとしています。 このように独学で印や真言を調べるなかで「印は行者しか結んではならない」「印や真言は誰が行おうと構わない」「師に習わない印や真言に効力は無い」「軽い気持ちで印を結べば仏罰がくだる」…など様々な情報が入り乱れて混乱します。 ただそれでも私自身に「印を結び、真言を唱えたい」という欲求が合ったので都合の悪い情報は気にしないようにして印と真言をしてきました。 ちなみに理由は魔法使いみたいで格好が良いから、または自分はいま仏様に近付く修行している…といった心地のよい感覚があり、このまま根気よく続けていれば仏様との間に、より濃密なご縁を頂けるかも…なんて期待をしつつやっていました。 しかし時に後ろめたさの様な物を感じる事があります。この行為はもしかしたら仏様に対し失礼に当たるのではないかと。 とある質問サイトでこのような事を質問してみても意見はバラバラでどうすれば良いか分かりません。 このような混乱と欲求と後ろめたさが入り乱れ撹拌されてか、今朝の夢のなかでお坊さんに「真言や印は欲望で行うものではない、貴方が好意でそのように行動しても仏様は迷惑だと感じるだろう」と言われました。 すみません、あくまで夢の中のお話です でもとても鮮明な夢で「仏様は迷惑だと感じるだろう」という言葉が突き刺さり、堪らずこちらのサイトに登録を行い質問をさせてもらいました。 もしも夢など紛い物で無いお坊さんにそのように言われれば、私はキッパリと印と真言の欲求は断ち切るつもりです。 しかし私の欲求として仏様の迷惑にならないなら印を結び真言を唱えたいです。 どうしたら良いでしょうか。 分かりにくい所があったらすみません。 混乱と欲求が激しく渦巻いてそれ以外の事が考えられません。 どうか回答お願いします。
密教に詳しいお坊様にご質問・ご相談です。 護摩に何度か参加させていただいているのですが、一字金輪仏頂のご真言を最後によく唱えます。 興味を惹かれて、文献で調べましたところ、大変な効力のあるご真言で、他の真言や修法の効果をかき消してしまう。しかし修法の時に唱えれば、「あらゆる障碍(しょうげ)を払い修法を成功させる」とありました。 ここまでは良かったのですが、普段の家のお勤めの時、このご真言が頭に浮かんでしまいます。 これではお勤行の功徳がかき消されるのでは? と心配にかられます。 また私は、子供の頃から、軽い涜神恐怖(とくしん恐怖)があります。 強迫性障害のひとつで、無意識のうちに、思ってもいないはずの神仏への冒涜的な雑念が、勝手に頭に浮かんで、その不安と恐怖に駆られる非常に厄介なものです。 こちらはお勤行の時に懺悔文を唱えることで、数年以上前に克服できたのですが、この「一字金輪仏頂」のことを知ってしまったために、ぶり返してしまいました。 つまり、冒涜的な雑念と一字金輪仏頂のご真言が、一緒に頭に浮かんで、せっかくのお勤行が台無しになるのでは? と言う脅迫観念と言いますか、不安です。 これは気にし過ぎでしょうか? やはりご真言は、口で唱えるか、意図して観想したものでなければ問題ないと考えてよろしいのでしょうか。 我ながら、バカな質問では? と思うのですが、よろしくお願い致します。
前にお寺の仏様のご真言が書かれていて、手を合わせ読み上げると知らないおばさんに、素人が唱えてはいけないと注意されました。 ご真言は一般の人が読み上げてはいけないのでしょうか?
これも気になっていることなのですが。 在家信徒は、光明真言以外の真言を唱えてはいけない。どうしても唱えたい時は、お寺から伝授を受けることと書いてある本がありました。 ネットでも聞いたことがあります。 逆にお坊さんの書いた本やブログに、様々な真言を公開し、唱えることを薦めている本もあります。 またネットで、「一般向けの本で公開されてる真言は問題ない。しかしお坊さんがご祈祷等で唱える専門的な真言は良くない」と言う意見もありました。 本当のところ、どれが正しいのでしょうか? 在家が光明真言以外の真言を唱えて良いのでしょうか? またお寺さんで配布しているパンフやお札、授与している教本に真言が書かれていることがありますが、これは伝授されたと考えてよろしいのでしょうか? お願い致します。
私はいつも光明真言や、不動明王などの真言を学校に行く前に大体15分くらい唱えているのですが、真言の効果って、時間と共に薄れていくのですか? また、よく真言を唱えるときに噛んだりしてしまうことがあるのですが、それによって祟りなど、不幸なことが起こるのですか?
知り合いのご住職から、法華経の読み違いがあっても、その欠落した分を補ってくれる法華滅罪真言(補欠分真言)なるものを教えて戴きましたが、 出典はご存じないとのことでした。 ①以下のように聞き取ったのですが、間違っておりませんでしょうか。 なも あらたんな たらやーやー おん きゃらきゃら くじゅうくじゅう からから(たらたら?) おん たどたんだら じびたー そわかー ②出典をご存知の方がありましたら、お教えください。
真言宗の僧侶以外の人が真言を唱えてもいいんですか?
おつとめの時に十三仏の真言を唱えています。その時に印を結んでいます。 また、光明真言を唱える時は、金剛合掌をしています。勝手に習ってもいないのに印をむすんだりしてもよいのでしょうか。
真言宗を信心している者です。おつとめの時などで真言を唱えていますが、灌頂を受けたほうがいいのでしょうか。
真言は早く唱えるのでしょうか? 逆にゆっくりと唱えるものでしょうか? 不動明王に毎日千反の不動真言を唱えています。 正確に唱えようとするととんでもない時間がかかり、50分くらいを目指すと所々音が抜けてしまいます。 お坊さんは聞き取れないくらいものすごい早さで唱えていますが、ゆっくり、早く、どちらが良いというのはあるのでしょうか?