どのように対処したら良いか
こんにちは。
以前にも関連した質問をしたのですが、我が家には全く文化の違うアフリカ人の住み込みの使用人がおります。
文化の違い以前の問題で、彼女には自分の有利になる人間を利用するかへこへこしておこぼれを貰うか、それ以外の人間には大変高慢な態度をとります。サバイバルのごとく生きてきたのでしょうからそれは仕方のないことかもしれませんが。
こういう人格を見抜けず雇ってしまった私にも非が有るのですが、あまりにも高慢でけんか腰、落ち着け落ち着けと言い聞かせているこちらが間抜けなくらいです。
例えば言ったことと全く違うことをやったとします。こちらは感情抜きで、要点だけを明確に使えます。すると彼女は「言いたいことはそれだけ?(鼻で笑ってあしらって」という感じです。
自分の都合が悪い、もしくは聞きたくないときは「英語は私の母国語じゃないからわからない(やはり笑って」です。
誇張した話ばかり、どんな手を使ってでもより多くのお金やものを手に入れようと、そのことばかりです。
正直、この人以外ならどんな人とも平常心で接することができます。
国籍の違う人間にも理解はあるし、友好的だと自分では思っています。
土足でテーブルの上に子供を立たせている親子だって何とも思いません。列を抜かされても怒りません。
住み込みでなければ目をつぶって嫌なところは見ないように、で済んだと思います。
しかし、私はもう腹が立って仕方ありません。腹が立つのは彼女に対してというより、どうして心穏やかに過ごそうと心がけている私の邪魔をするんだ、そういう感じでしょうか。
正直、山に籠って修行するほうが遥かに楽なのではないかと思うくらいです。
質問です。仏教徒として、こういう場合どのように対処すべきなのでしょうか。両親は他界し、シングルマザーで子供三人、仕事に子育てにとこういう地でやっていますが、彼女に対する怒りをコントロールすること以上に難しいことは有りません。どうか助言をください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「使用人」も同じ人間です…
その「使用人」のお方はあなたが募集し、雇用したんですよね。ならば解雇も出来るのではないでしょうか。もちろん御地でどのような法体系があって、どのくらい「使用人」の立場が守られているのかは知りませんが…。退職金など、目をつぶって多めに支給するなどで対応出来ないのでしょうか。
それが無理ならば、その「使用人」と一緒に生活していくしかありませんね。
一つだけ申せるのは「使用人」も「あなた」も同じ人間であるということです。
私がかつて若い後輩僧侶に申したことがあります。「あなたは権威でもって人に頭を下げさせよう、言うことを聞かせようとしているだろう。私はあなたより遥かに多くの方から頭を下げられる…何でか分かるか。私は少なくともあなたよりは努めて、相手より先に、相手より多くお辞儀をするようにしている…それだけの理由だよ」
そんなことをしたら、相手に舐めきられてしまう。何せ文化が違うんだ(相手は同じ人間じゃないんだ)…とお考えならば、一刻も早く解雇すべきです。
同じ人間です…コイツはスゴイヤツだと思えば、偉そうな態度は取れませんよ。私もそう思い、あなたもそう思うならば、「使用人」もそう思うはずです。
あなたから、先に日常の挨拶されたらどうですか。ねぎらい、感謝の言葉を多く掛けられてはいかがですか?
難しいかもしれませんが
難しいかもしれませんが、先ずは怒らないようにしましょう。
怒りは毒でありあなたの心身を蝕みます。
怒りは炎であり周りの人に燃え移ります。
怒った方が負けだと思ってください。
怒りを捨てることは仏教の中でも大きなテーマであります。
徳川家康は遺言に「怒りは敵と思え」と残しています。
さて、改善できるかどうか分かりませんが、違ったアプローチをしてみませんか。
使用人に自ら考えさせるのです。
例えば、この部屋を掃除してほしいときは、
「この部屋を綺麗にしたいんだけど、どうしたらいいかな?」と使用人に問います。
使用人「掃除すればいい」
あなた「どのように?」
使用人「ほうきで掃いて」
あなた「いつ?」
使用人「今日の昼頃」
あなた「では、それでお願いしますね」
使用人「はい」
という感じでしょうか。使用人も自分が言ったことに嘘をつきにくいでしょう。
もちろん、こんなに簡単にはいかないでしょうが。
あなたの問いかけ方が上達すると、使用人を上手く使える、というより、使用人がちゃんと考えて動いてくれるようになる、かもしれません。使用人の性格にもよりますけど。
参考までに。
質問者からのお礼
ご返答感謝いたします。納得できる部分とそうでない部分も正直ございますが、その言葉の意味は以後自分が成長するなかで得られるのではないかと思います。
一部、文化の違う=人間でない、とございましたがこれだけは反論させてください。そんなことは微塵も思ってございません。人生の半分以上を海外で過ごしておりますが、日本ほど平等で平和な国はないように感じます。育った環境が違うと、本当に価値観や全てが「違う」のです。違うというのは命の尊さや人間としての価値が違うのではなく、考え方、ものの見方、受け取り方、が違うのです。
色々な人間が集まれば集まるほど、やはり人間同じなんだと実感することも多ければ違いを実感することも多々有ります。この違いというのは洋服の違いとさほど変わらないものなのでしょうけど、やはり人間ですから、心が揺さぶられてしまうこともあります。これが私の弱さ、愚かさです。
確かに、ひとを使う立場ですから、上に立つ人間はこうあるべきだという固定観念が自分を苦しめているのかも知れません。とても自然にその立場で振る舞える人間もいれば、出来ない人間もいる。私は後者です。出来ないから気負いしている、頑張っている、それが裏目に出ているのかもしれません。
いづれにしろ、すべては私の未熟さから起こったものだとは十分認識しております。
認識しているから怒ることが許せない、不快でしかたないのです。
お時間とって頂いて返信してくださって感謝しております。
聖章様
助言をありがとうございます。ずっと考えておりまして、やはりコミュニケーションというのは話術でもあるのだなあと思っていたところです。やれと言われたからといってやる気にならない、感謝しろといわれても心から感謝できないのは私も同じです。これから自分のやり方を観察して改善していこうと思います。