死を受け入れられない
家族ぐるみでとてもお世話になった人が、今春亡くなったようで、その事実をつい数日前に知りました。
その方とは、年に一度会う程度だったのですが、会った時にはいつも親切にして下さる素敵な方でした。
訃報を聞いてからは、涙が止まらず、こんなにも大きな存在だったのだと実感しました。
「去年会った時は、あんなに元気そうだったのに」「あの姿が最後だったなんて信じられない」「亡くなったのは嘘ではないか」などと思ってしまい、死を受け入れなければならないということはわかっているのですが、受け入れられない自分がいます。
また、何をしていても、頭の片隅にその方との思い出が浮かんでは、悲しくなってしまうことの繰り返しです。
数年前に祖父母を亡くしておりますので、死と直面するのは初めてではないのですが、今はその受け入れ方がわからずにいます。
どうやってこの死と向き合えばいいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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ご供養すること
こんにちは。辛いことを、それとして肯定できないのですね。頼りにされていた方が今までの関係でなくなった事が受け入れられない。
私は、人が亡くなることは、関係の変化であると思います。同じ娑婆にいれば、会って話をしたり相談することもできる。触れることも。でも、今すでに、貴女とその方の距離は変わってしまったのです。ですから新たな距離感を作らなければならない。具体的には、貴女の記憶の中のその方を大切にすることです。思い出すことです、「あの方なら何て言うかしら」と。そうすることで、貴女の中で生き続けることができるのです。目を瞑ってしまった、お墓に入ってしまった、その事自体はもう取り返せないでしょう?ですから、貴女が何かにつけ思い出し、想像し、自分の生きる触媒になっていただく事です。これが邦元師の仰る供養という事だと思います。そして叶う事であれば、その方の話をアウトプットする事です。貴女の中でより深い繋がりとなり、縁を広めていく事になるでしょう。
お参りしましょう
しえりさま
死を受け入れられないとのこと。大切な方との別れは悲しいものです。
きちんとけじめをつけるためにも、お参りされるといいと思います。墓前にお線香をあげることだけでも、本当になくなったということがわかるでしょう。
お葬式や法事などの行事は、そうした残された方々の心のケアの場でもあります。事実と向き合い、自分の生き方を見つめる場です。
法事などに参列することが難しければ、お墓参りだけでも、もしくはご自宅に香典を届けながら仏壇にお線香をあげるなどしてくるといいと思います。
在りし日の姿をかみしめて
拝読させていただきました。大切な方との死別はなかなか受け入れることは難しいです。本当につらいことです。わかっていることですがいざその時をむかえると悲しみに打ちひしがれて通常の感覚ではいられなくなってしまいます。それが私達人間ですし、人の弱さでもあります。ですがその様に大切な方の存在を改めてかみしめて、自分にどれだけ大切な方なのか必要な方なのかを実感できることやその方とのご縁を感じることができるのも私達人間です。
どうかその方との在りし日のことを改めてかみしめていただき、そしてご縁を実感なさっていただき、心を込めてご供養なさっていただきます様にお願いします。あなたの思いは必ずやその方に届きますので。
質問者からのお礼
邦元様
回答ありがとうございます。
何らかの形でお参りし、少しずつ現実を受け止められるようにしたいと思います。
kousyo Kuuyo Azuma様
回答ありがとうございます。
亡くなった方との事を思い出すこと、かみしめることで、その縁を実感すること、これこそが供養になるのだという事がわかり、ほっとした自分がいます。思い出すことが、いけない事のように感じてしまっていたからです。
思い出さないようにするのではなく、その思い出を大切にして、亡くなった方に届くよう、心をこめて供養したいと思います。
佐藤良文様
回答ありがとうございます。
そして、あたたかいお言葉に、涙が止まりませんでした。
亡くなってしまった人をいつまでも想うことは、現実から目を背けてしまっている事だと思っていました。
しかし、佐藤様のお言葉を聞き、思い出を大切にすること、記憶の中に存在させることが供養になると知りました。
少し時間はかかるかもしれませんが、心をこめて供養できるようにしたいと思います。