ブッダの漫画
我が家には高2♀と中3♂の子供がいます。
下の子は小4の夏休み明けから不登校になり、中学校も、入学式から1度も学校に行けておりません。
今まで、色々な機関で相談をしたり心療内科にも通っており、その過程で発達障害だとわかりました。
恐らく上の子も発達障害らしく、その傾向がある為 家庭内では、上の子に対しサポートをしながら生活をしています。
下の子は、上の子の症状とは全く違い、表立ってサポート出来る様な事がない為、難しさともどかしさを感じています。
下の子の場合は、ちょっとした事にすぐ不安な気持ちを抱いてしまい、本人では当然の事ながら、私が何かを言ってあげても、その不安を払拭してあげる事が出来ず、あまり外に出る事が出来ない状況の為、1日中家にいる事がほとんどです。
それでも、相談も含め、適応指導教室や心療内科等、ピークの頃と比べると だいぶ行ける様になってきました。
ですが家にいる時には、好きな時間に寝て 好きな時間に起き、勉強もせずにゲーム三昧です。
勿論 そんな生活を容認しているワケではなく、毎日の様に口をすっぱくして言っていますし、私が作ったスケジュール表(起床/就寝時間を決め、少しでも体を動かす時間、少しの学習時間、ゲームをしていい時間を決めているだけの…) をこなせる様に話していますがそれも出来ません。
つい最近そんな息子に、手塚治虫のブッダを全巻、時間はたくさんあるし 漫画だから読みやすいと思うし、たまには読書でも、と渡しました。
今はまだ全く開いてもいない様ですが、息子なりに少しでもなにか、感じ取ってくれるといいなぁ、と思っています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
それぞれが皆、ブッダへの道を歩みましょう。
発達障害はいついかなる時に❝障害❞となるでしょうか。
ゲームはちゃんとやれます。仏陀のマンガも発達障害だから読めないなんてことはないはずでしょう。。
見極めて欲しい所がこの点です。
いつどこで誰が何の状況下においてのみ発達障害とやらが「障り」になるのか?ということ。ここを明らかにされるべきです。
世間の多くの方々が「発達障害」「◌◌症」という言葉の暗示にかかってしまって、実際の本人がそれ以外の生活で何の問題も支障も無く生活tで来ているという手頃を見過ごしてしまっておられるのではないでしょうか。
もちろん学校に行ってくれることが一番望ましいことです。
その為にもまず、親御さんであるあなたがお子さんを◌◌障害というフィルター越しに観ないことからスタートしてみてください。
24時間の内、それによってどんな事だけが問題なのか。
よくよく見極めていくと玉ねぎの川を全部剥いていったら中身がなかったように、最初から全体をびゅお人扱いしてしまっているだけかもしれません。単に学校に行かなくなった、キライな人がいる苦手な人がいる、その人の前でウマく対応ができないという程度の事として冷静に接してみてください。
また問題を分離して、お子さんの問題は当の本人のお子さんの問題。お母さんとして心配だ、気になってしまってどうしようもないという問題はお母さんの問題。別々のこととしてみてください。
どんな問題も本人の中の一念です。客観的にみればお母さんのお子さんに対する不安な気持ちも、お子さんが学校で辛い思いをされたということも、迷いの品質としては同じ一念なのです。
それを正しく見極められれば学校は行けるようになります。実際に坐禅会を通して行けるようになった子どももいます。機会があれば連れてきてあげてください。
人に対して恐怖するその思いは、その人に出逢った時点ではまだ何も問題がない。
その人に出逢った直後、自分の中で想起させる自らの思いによって苦しむのです。
何故なら学校での嫌な出来事はもう現場では終わっています。新学期に行けばその問題はもうどこにも怒っていません。本人の心の中の一念がフラッシュバックであったり、トラウマであるのです。
仏陀は自らの思いに影響をされなくなった我々と同じ人間です。仏陀と同じく自分のも胃に影響をされない生き方をする。それが私たちに与えられている仏の教え、仏の道です。
困り感に気づく
まずはお子さん自身が問題意識を持っているかどうかです。困り感があるのか。もし困り感があるなら、それは自分で作り上げているということ。人のせいにしたり環境のせいにしたり、親のせいにしたりそんなことをもし、していたら甘え続け悩みは増していくことでしょう。
お釈迦様も悩みを解決すべく、厳しい環境に身を置いてみて、外からたくさん刺激を与え、いくら我慢しても救われないことに気づきました。
結果、中道に救いの道を見つけました。夏休みの期間中、少し仏教に触れるようなイベントに参加したりして、興味が出れば漫画を読むかもしれませんね。お母様のことばが響かないのは、自分自身で問題として感じていないからかもしれませんね。どうにか生きていける。親がどうにかしてくれる。
いつかどうにもならない現実に気づいたとき、自分を見つめられるよう、そのヒントとして、仏教がそばにあるといいですね。