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幸せな生活をパートナーと送りたいです。

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有り難し有り難し 26

高校の時以来数々の恋愛をしてきました。
でも残念ながらどれも長く続かず、喧嘩と嫉妬が主な理由で別れちゃいます。
現在、再び新たな恋愛に入ろうと思うのですが、どうやったら相手を嫉妬などな感情を持たずに純粋に愛する事、信頼できる事ができますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

誰も自分のものにはならないと知る

真実の愛はそこから生まれるかと。
今のあなたはおそらく、あなたが相手を求める状態にあると思います。
その場合あなたのルールにのっとっていないと許せなくなるのです。
それは完全なるマイマイ独自独善ワールド。
好きな人ができたとしても、本人のいない所で虚像の彼女を思い描いてしまい、そっちばかり相手にするようになるのです。自分の中で都合よく作り上げられた美意識の高い理想彼女が、自分のルールと別行動をすると海外ドラマで女性にキレる男性のようになる。それは恋も愛でもなく、マイ・インナー・わーるどです。
多くの人は、恋愛相手に「もう一人の相手」を心の中でつくり出します。
当の本人ではないもの。
自分の頭の中だけの彼女。
チョット前のお相手を思い出してください。
はい。
その人です。
その人が誰であっても、その人は今目の前に居ないはずです。
目の前に居たとしても対峙していないはずです。
人間は不思議な癖があり、本人がいない所で、本人に限りなくそっくりなイメージ、ビジョンを作りだして、その当人の中のセルフイメージを相手にやりあっているのです。そこに気づけると、生身のリアルタイムの当の本人だけを相手にすることができるようになります。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

愛には、「渇愛」と「愛心」に象徴される二面性があります

 タイトルにも書きましたように、愛には二面性があります。「愛とは〇〇だ」と一言で説明できる代物じゃないんです。私なりの仏教理解の範囲で申し上げますと、「渇愛」と「愛心」に大別されると思います。

渇愛とは
 惚れた相手に対する独占欲です。喉が渇いている時に水を欲するように、色々な対象に対して貪欲さが現れ、すべてを我が手中のものとしたくなる心理状態を言います。これは人間の感情として極めて自然なものですが、同時にこの感情を暴走させたら極めて危険でもあります。

愛心とは
 相手をいたわり思いやる心という意味です。道元禅師が書かれた『正法眼蔵  菩提薩埵四摂法』に「しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子(シュウジ)とせり。」とあります。道元禅師の言葉に即して言えば、愛語の元となる心のことであり、衆生に備わる慈悲心から発露する心のことを指します。

 卑見の範囲で申し上げますと、キリスト教で説く「愛」にも、二面性があるようです。例えば、大正時代の文学者有島武郎の書いた評論に『惜みなく愛は奪ふ』が有名ですが、その中で「愛は自己への獲得である。愛は惜しみなく奪うものだ。愛せられるものは奪われてはいるが、不思議なことに何物も奪われてはいない。然し愛するものは必ず奪っている。」と述べています。これは独占欲に他なりません。

 一方で、相手を大切に思う心の在り方という意味での「愛」もあります。切支丹文学などでは、「愛」という言葉を「御大切」と翻訳しており、愛を「汝を大切に思う」という意味に説明してます。(坂口安吾『恋愛論』参照) 

  ご質問に、「喧嘩と嫉妬が主な理由で別れちゃいます。」とありますが、相手が好きであり自分が独占したい願うから嫉妬するのです。正しく渇愛から来る行動です。相手に対する独占欲というしかありません。人間として極めて自然な感情ですが、うまく感情をコントロールし暴走を抑えることが大事です。
 喧嘩や嫉妬を繰り返さないためには、渇愛をうまくコントロールし、相手をいたわり思いやる愛心を実践することです。ツンデレや壁ドンがカッコイイと勘違いしている人も多いようですが、常に愛心を持って接し、愛語を怠らないことが大事だと思います。良き出会いと良きご縁を念じております。

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個別相談可能
 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努めております。決して容易いことでは有りませんが、一期一会の気持ちで相談に、葬儀法事に励みたいと思います。    最初法学部部にで学び、4年間ほど公務員をしていました。(税務署勤務)その当時の学びと経験を終活相談に活かしたいと思います。                                              昭和63年5月に住職となってから、30年が過ぎてしまいました。仏教学・禅学もそこそこ真面目に学んだつもりですが、宗教学・宗教民俗学に力を入れて学びました。そういう分野については丁寧な回答が出来るかも。
一人一人の気持ちに寄り添い、傾聴に徹して、心をほぐしてあげられるよう、努めたいと思います。 それと同時に、完璧に出来るとは限りませんが、其の人が歩むべき方向を一緒に考えてあげたり、次の一歩を踏み出せるよう背中をおしてあげられるよう、努めたいと思っております。

質問者からのお礼

素晴らしい回答ありがとうございます。

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