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家庭での様々な問題を解決する方法

回答数回答 1
有り難し有り難し 7

姉と母の確執について悩みがあり、お坊様方のお力をお借りしたいと思ってご相談をさせて頂きます。
読みづらい部分が多いと思いますがご容赦ください。

まず私の家族について、
母→主婦。気性の激しい人で、姉と私は昔からきつく当たられていました。
姉→フリーター。実家住まい。以前は正社員として働いてました。
父→会社員。家族についての関心は薄いように思います。
私→学生。母と暮らすのが嫌になり大学進学を機に他県に出ております。

姉は少し前、正社員として働いていた職場を、上司との折り合いが悪いという理由で辞め、現在は週3~4日のバイトをしています。
姉は現在は実家で家事の手伝いもせず、半日のバイトをしながら家にお金を入れることもせず何から何まで両親にお世話になって暮らしています。

母は姉が定職に就かず家事の手伝いもせず、部屋に籠ってネットばかりしていることにイライラしているようです。姉には家を出て一人暮らししてほしいそうです。
父は姉が前の職場をやめる際にかなり精神を病んでしまったことを気にしており、母から相談されてもダラダラ暮らしをする姉を叱ることができないそうです。

母と姉は以前から相性が悪かったのですが、ここ最近いっそうお互いイライラしあっているらしく、母はしょっちゅう私に姉の愚痴を言います。
ですが、私からしてみれば、姉がダラダラしていて意志が弱く、ひとり暮らしできないような性格に育ったのは、姉に理不尽に厳しくあたって意志を否定するような育て方をした母親の責任のようにしか思えません。
姉も母の性格のキツさにうんざりしており、ときどき私に愚痴を言ってきます(なのに実家を離れたいとは言っていますが口ばかりです)。

私もそろそろ独立する時期で、いつまでもお互いの悪口を聞いて慰めてばかりいられません。
このままでは姉も私も母親から離れられないような気がしています。

話が長くなってしまいました、ここからがご相談の本題です。
何とか母と姉の問題を解決し、双方が納得できるような方法はありませんでしょうか。
または、ふたりのぶつかり合いを解消するような、双方が納得していがみ合いを解消できるようなお言葉がいただけないかと思います。

長々と失礼いたしました。
少しでも問題の解決に進むようなご助言をいただくことが来出れば幸いです。
何卒、よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

双方の利となるニンジンをぶらさげる 

例1
「大丈夫だよママ♡
私が老後の母さんの面倒を看てあげるから♡
でも、姉さんも頑張っているんだから、責めないであげてね♡」プリプリ(*^。^*)
「お前って子は!おいで!ムギュムギュ。ナデナデ。」
「エヘヘっ。だからお姉ちゃんともうケンカはなしだよっ」
「アタシが悪かったワ、ムギュムギュ」完
なんてね♡
双方が利益・メリット・助かることを提案してください。
また、双方の気持ちを最後まで個別に、受け入れ、受け止めてあげることです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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