hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

最低です

回答数回答 2
有り難し有り難し 65

死にたいのに また朝が来てしまった。消えてなくなりたい。それなのに 自分で死ぬ勇気がありません。 なら、一生懸命 生きるしかないのに、それからも逃げています。私は人として 最低です。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「死ねない、けれど進めもしない」のなら

どうされたのでしょう。
この80文字足らずの言葉だけでは想像する他ありませんが、貴方の投稿を「SOS」と解釈するなら、先ずはここに投稿して下さったことに感謝します。

法華経というお経の中には、「お釈迦様が私たちの目の前にお出ましになられて、法(正しい教え)を説かれているにもかかわらず、“顛倒の衆生“である私たちにはそれが見えないし分からない」という一節が出て参ります。
顛倒というのは「逆さま」の意味ですが、物の考え方も捉え方も逆へ逆へと解釈してしまう私たちは、本来の自分の姿さえも見失ってしまっています。自信を失った時にこそ、素直な心と心柔らかくする(質直意柔軟)ことで、苦しみに遭っても救われるのです。

今の貴方は、「死にたいけれど自分で死ぬ勇気がなく、一生懸命生きることからも逃げている。」のですね。実に人間らしいじゃないですか。多少の違いはあれ、誰しもそのようなところはありますよ。
「最低な人間」の定義は分かりませんが、私的には自分が死ぬために罪のない人を巻き添えにする人間などが該当しますかね。

私からの一つの提案として、「死ねない、けれど進めもしない」のなら漂いなさい。漂って、彷徨って、一つでも多くの言葉に触れ、一人でも多くの人と出会いなさい。
そして、「人間いつでも死のうと思えば死ねるから、取りあえず自分が頑張れる範囲でやってみっか。」って思えたら、少しずつ生きてみれば如何ですか?

{{count}}
有り難し
おきもち

初めまして。桑木茂光と申します。 大阪最北端に位置する能勢町にございます蓮華寺というお寺を預かっております。 We are the ones who make a brighter day!☆明るい明日を作るのは僕らの仕事! お寺と病院を掛け持ちしながら、こんな言葉を胸に日々ジタバタしております(^_^;) どうぞよろしくお願い致します。

脳内スタジオの駄目コメンテーターを解雇しろ

ワイドショーで出てくるお金で雇われてその場だけ煽り立てて世間の影響力も考えずに無責任な発言をしている愚かなコメンテーターたちのような…。
世の中にはそういう人がいます。
何でもかんでも言葉を並べればいいというものではない。
ネット上にもいます。
何でもかんでも心無い言葉を並べればよいというものではない。
脳内にもいます。
何でもかんでも後先の利強を考えずにいたずらに言葉を並べて自分を苦しめている。
「死にたい」
「また朝が来てしまった」
「消えてなくなりたい」
「私は人として 最低です」
誰が言っていますか?
楽しかった時のあなたはどこへ行ってしまったのですか?
そのネガティブワードを並べる自分を苦しめる脳内ゲストはさっさと解雇して、気持ちを新たに慎重に言葉を発するべきです。
気持ちが沈んでいる時にむやみに言葉を発するとろくでもない言葉ばかり出てきます。
今週末の土曜日7月30日はうちのお寺の境内でお祭りと質素な花火があります。
お構いできませんが、遊びに来てください。翌日坐禅会にご参加いただき、新しい脳内環境を手に入れましょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

桑木茂光様 丹下覚元様 お言葉ありがとうございました。 今も 前向きな気持ちにはなれていませんが いつか 生きていて良かったと思える日が来るのでしょうか… ご住職様 お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。

死にたい

やっぱり死にたい 頑張れない

煩悩スッキリコラムまとめ