言霊について。
私は最近、私へ対しての悪口を告げていた人が悲惨な目に遭う、そんなことをよく見ます。
というのも。
その人からは感情に身を任せた、些細な言葉だったんだと思います。
「あぁ? わからねぇの?」とか。
「おせーよ」とか。仕事してて私のニガテなところを指摘してきます。
ですが、一般論では
時が解決してくれるといいますよね。
言ったその人に、そのまま返ってきてるみたいです。
そこで、気になったのですが
他人のことを傷つけた人間には
仏教の世界でも
暫くしたらバチが当たる、という考えはあるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「人差し指のたとえ」をご紹介
人差し指を1人に向けてみてください
中指から小指まで、
3人の人に指さし返されます
これが真理でしょう
押さえる親指は、
外敵から身を守って下さる存在(親)です
これも真理でしょう
言霊の力をも越えるのが禅の悟り
その意味を込めて発した言葉は本人の中で直接的に作用するものです。
影響力はあるものです。
言葉には意味を持たせれば、その意味が言葉に宿ります。
「ことことば」といいまして、本当にそのものをあらわす神意としての言葉もありますが、言葉を深く見極めていきますと「はじめに言葉ありき」ではないという事が分ります。
「はじめに事実ありき」が悟りのまなざしです。
言葉は本来、無色透明。
意味がそこに宿ると言っても本人の脳内でその意味としての言葉が機能するという事。
「かわいい」という言葉一つにしても、お世辞から、愛くるしい、キュート、萌える、子どもらしい、本当にカワイイ、という意味がありますが、真意は本人のみぞ知るです。
言葉がそこにありながら、その言葉が自分に機能しなけらばその言葉は誰のものでもなく、純粋無垢なのです。どんなに暴力的に感じる言葉であっても仏陀の悟りのまなざしでそれを観る時、そこに害や毒はありません。
言葉に傷つかないようになって下さい。
先日の障がい者の事件にしても犯人はひどい言葉を遺されましたが、そこにその意味をそのまま受け取ると、純粋な人であればその言葉の魔力ともいうべきチカラによって暗い檻に閉じ込められてしまうものです。
禅の公案を学ばれると良いでしょう。
「片手の音を持ってこい」
「雪ほど黒いものはない」
「二つの月」
言葉の意味を解脱できます。
言葉についていると思われている意味を卒業できれば、言葉に苦しまなくなります。
「しねばいいのに」とか言われてもヘーキになれます。
そもそも言葉に一面的、一義的な意味しか添えられないというのも人間としてその人生は窮屈なものです。ちょっとした言葉ですぐ問題にする人がいるでしょう。
言葉に振り回される生き方というものです。
ですから、あなたが言葉に騙されたり振り回されない生き方をする。
それがあなたの仏道修行の始まりです。
質問者からのお礼
ありがとうございます!