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言霊について。

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私は最近、私へ対しての悪口を告げていた人が悲惨な目に遭う、そんなことをよく見ます。

というのも。
その人からは感情に身を任せた、些細な言葉だったんだと思います。
「あぁ? わからねぇの?」とか。
「おせーよ」とか。仕事してて私のニガテなところを指摘してきます。

ですが、一般論では
時が解決してくれるといいますよね。
言ったその人に、そのまま返ってきてるみたいです。

そこで、気になったのですが
他人のことを傷つけた人間には
仏教の世界でも
暫くしたらバチが当たる、という考えはあるのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「人差し指のたとえ」をご紹介

人差し指を1人に向けてみてください

中指から小指まで、
3人の人に指さし返されます

これが真理でしょう

押さえる親指は、
外敵から身を守って下さる存在(親)です

これも真理でしょう

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高野山真言宗 西室院 住職 神戸・阿字観実修会 主宰 ・高野山真言宗 布教師 心得 ・高野山真言宗 阿字観能化 心得 ・高野山真言宗 兵庫支所 青年教師会 会長 ・神戸真言宗連合会 理事 ・KOBE ファミリーフェスティバル 代表 趣味: DJ 和太鼓 蕎麦打ち 街歩き 地域振興行事

言霊の力をも越えるのが禅の悟り

その意味を込めて発した言葉は本人の中で直接的に作用するものです。
影響力はあるものです。
言葉には意味を持たせれば、その意味が言葉に宿ります。
「ことことば」といいまして、本当にそのものをあらわす神意としての言葉もありますが、言葉を深く見極めていきますと「はじめに言葉ありき」ではないという事が分ります。
「はじめに事実ありき」が悟りのまなざしです。
言葉は本来、無色透明。
意味がそこに宿ると言っても本人の脳内でその意味としての言葉が機能するという事。
「かわいい」という言葉一つにしても、お世辞から、愛くるしい、キュート、萌える、子どもらしい、本当にカワイイ、という意味がありますが、真意は本人のみぞ知るです。
言葉がそこにありながら、その言葉が自分に機能しなけらばその言葉は誰のものでもなく、純粋無垢なのです。どんなに暴力的に感じる言葉であっても仏陀の悟りのまなざしでそれを観る時、そこに害や毒はありません。
言葉に傷つかないようになって下さい。
先日の障がい者の事件にしても犯人はひどい言葉を遺されましたが、そこにその意味をそのまま受け取ると、純粋な人であればその言葉の魔力ともいうべきチカラによって暗い檻に閉じ込められてしまうものです。
禅の公案を学ばれると良いでしょう。
「片手の音を持ってこい」
「雪ほど黒いものはない」
「二つの月」
言葉の意味を解脱できます。
言葉についていると思われている意味を卒業できれば、言葉に苦しまなくなります。
「しねばいいのに」とか言われてもヘーキになれます。
そもそも言葉に一面的、一義的な意味しか添えられないというのも人間としてその人生は窮屈なものです。ちょっとした言葉ですぐ問題にする人がいるでしょう。
言葉に振り回される生き方というものです。
ですから、あなたが言葉に騙されたり振り回されない生き方をする。
それがあなたの仏道修行の始まりです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます!

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