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自分がわからなくなりました

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苦しいです。

自分がわからなくなりました。

孤独感に襲われ、自殺したいと思ってみたり、その事で頭がいっぱいになり、仕事に集中出来なくなったりしています。

自分で解決していかなければならないことはわかってはいるのですが、母親に事あるごとに電話したりして困らせている状態です。

心療内科に通院しているのですが、甘えといわれ、薬も安定剤を処方されているのですが、効いていないような感じです。

自分で判断しなければならないことも人に頼りっぱなしで判断に自身がない状態です。

コンビニなどで買い物をしていても、店員さんのレジの間違いが自分の時にかなり多いので、自分が何か違う世界にいるのかなと思ったりしています。

自分自身が何をやってやれば良いのかわからない状態です。

きっかけは、スマホをいじっていて、とあるサイトを見ていた時に精神的にショックを受け、その事ばかり考えてしまった結果、自分がわからなくなってしまったみたいです。

そこから回りの皆が冷たい感じがあり、さらにショックを受けたというのが事の発端です。

なにかメチャクチャになってしまいましたが、何事も人に頼りっぱなしだったので何かの罰なのかなぁと思ったりしています。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

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心の中で自分を悪く言う評論家、コメンテーターを黙らせる。
これがキーワードです。
トラウマもフラッシュバックも閲覧注意画像も、本当は初見の時・発生時点では「それを観るもの(私)」がいません。映像がぽんとある。思いがひょっこり顔を出しただけ。
だから本当のところはその時点においては害はありません。
この「本当のところ」に焦点を合わせていきましょう。
結論から申し上げると、そこに「わたくし・私見・主観・自己見解」を持ち込むことで、問題になる。
ゆえに、その純粋な出来事に対して「わたくし」を介入させないままに処することで無害になります。
是非善悪の判断をしなくなり心が騒がなくなるからです。
ネット上には痛ましい画像や閲覧注意な画像が溢れています。
ですが百人中百人がみな同じサイトで心に傷を受けるわけではない、ということを知ってください。
思いも自然に出てきているだけで、本当は害はありません。
その為に上手に心の距離を取ればよいのです。
ただ、それを再生して「観るもの=自分」が現われて、さらにそこに何かを論じる者=自分の判断をそこに加えていく事でその者に対する評価が生じます。
それが第一印象であり、同時に最後の印象です。
だから今、ファイナル・インプレッション、ラスト・インプレッションを書き換えればよいのです。
最後の印象があなたの中でDEAD ENDになっているからいけない。
どんな残虐な事件でも、それを解決したり、亡き人を弔い供養するからDEAD ENDにならない。
終焉、終局の「次」を作ることで、終わりという泥沼から抜け出せるのです。
あなたが過去に見たというサイトで傷ついたことも、ネガティブな固定見のままにせず、自分を精神的に強くさせてくれる「きっかけ」と思いを新たにすることです。
自分が経験した過去の出来事を「あしざま」に評価しているはずです。
「あしざま」に評価するから、それが心の中で、自身に悪いものとして影響が生じる。
この点をよーく、心うちを見つめて自分がネガティブ・ストリームの波風を立てることで苦しみが生じていただけという所に気づけば、波風がそれだけでいられるようになります。
心の中でびゅぅ~と悪い思いの風が吹いた時、ただビュー(VIEW)のままでいて、ぶーぶーコメントしなければ心はネガティブな思いからも影響を受けなくなれるのです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

地震兵器・HAARP、ケムトレイル、ユダヤ陰謀論・・

よし様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「とあるサイトを見ていた時に精神的にショックを受け、その事ばかり考えてしまった結果、自分がわからなくなってしまった」・・どんな内容のサイトか気になりますが、また宜しければ教えて頂けましたらと存じます。

とにかくネットは情報の大海。玉石混交です。どう冷静に、バイアス・偏見をできる限り除いて、事実を中立的に捉えていけるかどうか、または、合理的・批判的に検証した上で、その情報を受け入れて、どう役立てていくべきであるのか・・色々と難しいところがございます。

そういえば、一時期、拙生も、地震兵器・HAARPや飛行機雲・ケムトレイルや、ユダヤの陰謀論などを気にしていた頃がありましたね・・今では全く気にならなくなりましたが・・その頃は真剣に情報収集していました。

まあ、とにかく、大げさに不安や恐怖を煽って、不安や恐怖を利用するというような感じの類のものは、正直、疑っておくのに越したことはありません。宗教でもカルトがよく行う手法ですしね。

全く内容が違うかもしれませんが、少し参考程度までにて。。

川口英俊 合掌

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