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適切なアドバイスの仕方について

回答数回答 2
有り難し有り難し 7

適切なアドバイスは何か?と考えてみますと、相手にとって過不足なくアドバイスすることが重要なことではないかという結論に至りました。

 まず、不足しているアドバイス。これは、不足していて誤解を与えるアドバイスです。相談される側が相談する人の話を聞いていない場合です。また、聞いても助言が思いつかない場合もです。これらの場合はアドバイスが検討違いになったり、受け流すだけになってしまいます。これらを考慮するのは助言を与える側の前提条件だと思います。
 
 次が、過剰なアドバイスです。いきすぎると、おせっかいになります。これは2つのケースが考えられました。
 1つ目は、相手から相談された場合。これは、相手がある悩みをもっていて、自分にその悩みを聞いてほしいか、解決する手段を求めていると解釈できます。その悩みに対して、相談される側が"正しい"アドバイスを思いついた時に、それを相手に最後まで伝えるかどうかです。つまり、相手の理解できる範囲を超えたその時点では理解できない"正しい"アドバイスをすることは本当のアドバイスと言えるのか?ということです。
 2つ目は、相手が相談していないけれど、相手の問題点を発見し、"正しい"アドバイスを行う場合です。これについても相手にとって現状が最善であるけれども、周りからは自明でより良い選択肢を提供できる時に、その選択肢の存在を知らせることは良いのかにとても悩みました。これは1つ目のケースよりも相手の理解できる範囲を超えうるアドバイスになります。

以上より、適切なアドバイスとは、

(1)カウンセラーのように相手の意見を熱心に聞き、自分の意見を全く言わないようにする
(2)それとも、相手の理解できる範囲のアドバイスにとどめておく
(3) 相手が今理解できなくても、後に理解できるだろうから最後まで言う

のどれが適切と思いますか?(全く別の意見でも構いません)。実例としてこのhasunohaで質問者の悩みに対する答える時に気を付けていることなどでも良いので、お坊さんはどのような心持で答えているのか知りたいです。

 私は相談者は(1)→(2)→(3)の順に負担が重く、助言する側はこの順で言いやすくなると思います。私はついつい最後まで言ってしまう(3)(これが煩悩なのですか?)が多いので、(2)にしたいと思っているのですが。。。

お願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お医者さんはいきなり薬を与えない

最初から与えようとしているものがあるから不具合が生じてしまうのかもしれませんね。
内容的に適切な(内容の)アドバイスであっても採用するかしないかは、本人次第。
お釈迦様は対機説法であったといいます。
相手に合わせ、相手に応じて…、
おそらく私がこうして回答しても、あなたがどう捉えるか。
縁なき衆生は度し難し と いう言葉もあります。
アナタが素晴らしい内容のアドバイスを相手に提供しても、それは本当に相手次第なのです。
今アナタは、アドバイスを受け取る側にいます。
そこで感じ取る事の中に答えはあると思います。(^<^)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

悩み相談と愚痴聞きは違う。

相手が何を求めているかを見定めることが必要です。
ただ愚痴を聞いて欲しいなら、傾聴して頷いていればそれで100点です。
アドバイスが必要ならば何かアドバイスしてあげることが必要でしょう。
その場合「私はこう思う」としっかりと言うべきだろうと思います。

私はこのHasunohaは傾聴をして愚痴を聞く場ではないと思っています、
私は浄土真宗の僧侶なので、浄土真宗の教義の上においてどう考えるかを大切にし回答しています。
そこから離れた個人的で道徳的な見解を述べることは極力しないようにしています。

宗教の話が聞きたくない人はここに相談をしないと思います。
他人の意見を聞きたいだけならヤフー知恵袋で十分です。
私は人生経験はありませんし、人生の格言など何も知りません。
私の知っているのは、仏教の教えのごくごく一部だけです。
私が聞かせて頂いた仏様の教えをお伝えすること。
それが私にできる精一杯だと考えています。

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有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

質問者からのお礼

 釈心誓さん、回答ありがとうございます。

釈心誓さんのおっしゃる通り、私の質問は場違いかもしれませんが、こういう質問
を自分の周りの人に言っても無視されたり、真摯に答えてもらえる人いなかったの
で、回答してもらえるだけで有りがたいです。相手次第ということはその通りで、

その見分け方が難しいなと感じています。

丹下覚元さん、回答ありがとうございます。

その通りです。全て、相手の受け取り方次第です。

あるお店に訪れて、明らかに
そのお店にとって不利益を被るようなかつ、すぐに直せる間違いをしていて、ここを直した方がいいですと、そのお店のためを思って指摘しました。ですが、2回言っても、結局相手にされず、ただ話を聞いて、こちらをなだめようとしました。
そこで、なぜこの人たちに伝わらないのだろう、哀しいなぁと思いました。

この質問を私がしたのも、人間同士の誤解やすれ違いについて哀しいなぁと
思った一つの側面でもあります。
またきっかけとしてはお釈迦様の真理の言葉(ダ
ンマパダ)を数年前から一つ一つ読み返していて、お釈迦様の言葉はとても鋭くか
つ、よく考え抜かれた言葉だと感じ、参考になる部分が多いです。読み返す度に新
たな発見もあります。ですので、仏教の中でも人間同士の誤解について考えている
部分があるのではないかと思ったからです。この問題について、何度も考えていて、
終わりのない旅だなぁと感じています。

やはり相手に応じてが難しいのですね。

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