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問題行動を繰り返す娘との関わりについて

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19歳の娘は発達障害があり、自分中心にしか物事を考えることができません。また、自己欲求に対して衝動的に行動する事が多い為、家族、他者との関わりに障害が生じやすいです。
家族を含め、周りの人を振り回すような行動、自分に危険が及ぶ行動は控えるように本人に話しても、障害特性なのか聞く耳を持ちませんし、反省もしていないようです。
今まで娘を(それが正しかったがどうかは別として)私は信念をもって子育てをして、善悪や常識について話し聞かせてきましたが、願いむなしく変わらない娘をみて、親としての責務に限界を感じています。これからは親ではなく、世間様の風にあたり、娘自身が自ら考え成長していくしか道はないのではないかと思うようになりました。
かなり無謀な試みですが、家から出して自立させようと思っています。(本人は自立願望強いです。)
「獅子の崖落とし」的な発想ですが、いかが思われますでしょうか?
アドバイス・お考えをお聞かせ下さい。よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

コレヨカレ―

もしも私があなたのお嬢さんであって、この文章を見たとしたらきっと悲しい思いをすると思います。
あなたが思い違いをされている部分があると思うからです。
そして、そんな風に思われていたのか…、と哀しくなると思います。
どこまでいっても「おかあさん目線」な気がするのです。
もう少し受け止めて、容認、承認、容赦、放任、信じる、任せる…。
そういう気持ちはないのかなぁと思うはずです。
心配を信頼に変えましょう。
「ああ、おかあさんは本当に私を理解してくれていないなあ」と思うと思います。
「ああ、どうしておかあさんは私をそのように見てしまうのだろう」と悲しくなられると思います。
45秒、深呼吸をして自分目線をやめましょう。
凄く本当に、いままで頑張って来られたと思います。
私は立派だったと思います。
ですが、いくら頑張った!と言っても、お店でお客さんに自分の料理がウマいと思って一生懸命出しても、その人の口に合わなかったらマズイはまずいのです。
人間自分の人生なりに一生懸命に愛を勉強します。
その愛のイロカタチや味をカレーにたとえます。
昔、うちの坐禅会にスリランカ人が来ていました。
サラッタさんとかいう人でした。
別に人さらいや誘拐したわけではありませんが、サラッタさんでした。
そのサラッタさんは「日本のカレー土壁みたい」言ってました。
サラッタさんちに行ってカレー、ごちそうになったアルヨ。
私ども日本人、当時バーモントカレーくらいしか食べたこと無かった民族からするとそのスリランカカレーは、味はしない、サラサラ、しゃびしゃび、からーい、コリャナンダー?コリアンダー。何でこんなお香みたいな香りするの、だってカルダモーンでした。
それはサラッタさんが自分の中で最上級につくった美味しいカレーだったと思います。
この文化や愛のカタチのスレ違いこそが「コレヨカレ―(これ良かれ)」という相手に届かないズレズレの愛なのです。
サラッタさんの「コレヨカレー」はスリランカできっとおいしいのでしょうが、われわれ日本人の口には合わなかったのです。今食べたらおいしいと思いますが。
同様に、愛情というものもお互いに行き違ってしまうものです。
コレヨカレーというカレーのように届かないことだってあるのです。
自分のコレヨカレ―ではなく、相手が望んでいる事を提供してあげましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

今回の質問と、更に先日投稿した質問にもご回答をしていただきまして誠にありがとうございます。
かなり耳が痛いお話でしたが、心に響きました。娘に自分の価値観を押し付けて怒ってばかりいたことに申し訳ない事をしたと思い知らされました。娘をもう見放そうと考えていたこと、とても恥ずかしく思います。今後は娘の全てを容認して、見守ってあげようと思います。手遅れになる前で良かったです。気づかせて下さり、ありがとうございます。hasunohaに相談してよかったです。救われました。

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