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真の自由とは。真の創作家とは。

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ここ数ヶ月、あることで「自由とは何か」「真の創作家とはいかに」、こんな事を迷って、趣味である絵を描く事ができなくなってしまいました。

自分は、「己の欲に忠実になりながらも、同じ創作家相手をたとえ気に食わなくてもその実力を認め、自分も精進する」という考え方を持っています。

それを「めんどくさい奴」 「お前は修行僧か」 「お前の好き嫌いなんて知るか!押し付けんな」と、言われてしまいました。
同じ創作家に。

別に好き嫌いを押し付け合うんじゃなくてせめて実力だけでも認めてあげられないのか?
自分より格下でも絵を描く事は大変でそこすら認めてやらないのか?と、思っています。

もう一つは、先ほどの出来事以来、絵を描くことを休んでネットを見たのですがその際中に見てしまった事のせいで、先ほどの出来事で思ったことがさらに強くなると同時に何が正しいのかわからなくなってしまいました。

それは、他の創作家の方の話なのですが、同じ創作家の方々から嫉妬をされて、さらに読み手側からと同時に大きな批判をされてしまい、創作の世界を憎んでいるというものでした。
さらに見まわると、自分と同じく「繋がり」を求めてすごい数の量を描いても誰からも認められない方がいました。

自分は悩みを抱きました。

悩んでいるうちにある疑問を見つけました。
それは「みんな自由というものを履き違えているのではないか」
「自由があるからこそみんな好き勝手出できると勘違いして、それで彼らのような頑張っているのに報われないどころか地獄に落とされる人が生まれてしまうのではないか」と。
「皆エゴを開き直っているから悲しみが生まれてしまうのではないか」と。

それを「好きだけで馬鹿にするのか」「その考え方は許せない」と言われました。

以来、「真の自由」とはなんなのか。「真の創作家」とは一体どうゆう人の事を指すのか。
そんなことに悩み始めました。

たとえ憎くても格が違くても同じ創作家同士認め合って、お互い尊敬することは間違いなのでしょうか?
好き嫌いを押し通す事で悲しい人が生まれる事が果たして自由と呼べるのでしょうか?

自分は武の世界の言葉である神武不殺を大切にしています。
この言葉は武の世界だけではなく、様々な世界でも通用すると信じています。

しかし、欲だらけのこの創作の世界で生きるにはなにを信じればいいのでしょうか


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたとワシは生きる世界が違います。

 多分、あなたと生きる世界が違います。否、世界の見方が違うかもしれませんね。創作の世界が好きか嫌いかで価値が決まらないなら、何で価値を決めようとしているのか?ワシには理解できません。世の中、自由などと言うものは存在しませんとワシは思っていますので、あなたの気持ちは分かりません。
 もう一度、多分、仏教の「自由」と法律の「自由」と芸術の「自由」と○○の「自由」はすべて違うものであると思います。ワシは自由などは「ろくなもんじゃねー♪」と思っておりますので逆に型を大切にします。人間として生きている以上「眼横鼻直(目は横にあり、鼻は縦にまっすぐ伸びている。)」は防ぎようはありません。それより、あるがままを見極めるのが仏教の教えの1つです。逆にあるがままを見極めないのも仏教の教えの1つです。
 それなら字の得意な老僧に上手い字の書き方を教わった時に言われたことは「同じ字を1日100回書く事じゃ。」と言われました。その時、思ったのが、『slumdunk』の安西先生に1000本シュートを打ちなさいの言葉でした。そう「諦めたらそこでゲームセット」。その時、「止めることを修行で学びに来てないな。続けることを学びに来ているのかな。」と思いました。答えを求めすぎたのかな。自分に反省しました。
 答えなんか出しなさんな。答えのないことを求めているなら、貴方には不向きです。諦めなさいよ。否、明らめなさいよ。でも、好きなんでしょ。創作が。誰に何を言われても、ワシに何を言われても続けた者勝ちかもよ。ただ、自分の生活も大切にしなさいよ。
※この文章は自由カナ。

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目指せ!となりのお坊さん あなたの小さな悩み相談お答えします  私があなたの悩みを解決するのではありません あなたの悩みを解決するお手伝いを私がするのです ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
ここだけの話し  どんな些細な質問でも回答します! ・私の目指す僧侶は一休さんのようなちょい悪坊主です。時には常識にとらわれずとんでもないことを言いますが、しっかり受け止めて下さい。私もしっかりとあなたの質問を受け止めたいと思います。 ・先ずは30分からで、システムに慣れたら時間を延ばしたいと思います。

神武不殺が理想ならば それをただ実行すればいいのです

自分の表現は自分だけのものでしょう。
そこにあなたはイチイチ人の評価や、比較を持ち込むから、純粋芸術にならない、あなたの目指している「それ」にならないのです。
作品は作品がそこにあれば、それが答えです。
あとはオプションです、人の評価や、比較や、理由付け、意味づけなんて。
たとえば美術館にある作品が「そこにただ ボン とあるだけ」であるのがものの真実です。
そこに説明文を加えて「これは、これこれ こういうものである」という評がなされているとします。
それがあっても無くても、その作品はその作品そのものです。それ以上でもそれ以下でもない。
そこに書いてある❝情報❞を受け取り、評価を加えたり、アイツの作品と比べると…などと、後付けオプションの上で眺めれば、もはや考えの上でのこと。批評 評論 の世界で芸術 事実を観客席で眺めている事になる。それは知の世界。論の世界。すでに芸術そのものを離れています。それが今のあなたがやっている状態ではないでしょうか?真の芸術は、そこに そのもの が ただ そのように あるだけでしょう? 余分な付けたし 人知のラベルを寄せ付けません。ラベルが貼られるその前を観る事です。
自分が扱っていたのは、第一義の事実や芸術のリアルの方ではなく、二次的な評価や批評、自分の中の❝想念❞の世界を相手にしていた状態であった、とみてください。
本当にあなたが神武不殺なら、自分の考えが間違っていないだろうかなどと、自分を害するようなぐらつきでは、不殺なる神の武にはならんでしょう?
いっそ、それも呑却してもっとおおらかになってください。
神武不殺と言いながら、一番自分を害し、損ねているのがご自分でわかるでしょう?
たとえ迷いの中でも、あなたの信じる道で表現された作品が、あなたの分身、アナタそのものの表れでしょう。
思いの評を加える以前の本質に触れてください。
好き嫌いなどという主観は作品のどこについているか?
あなたの疑問も作品にぶつければ答えがつくりだされるのではないでしょうか。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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