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努力って他人を見て比較してするものですか?

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とある人に現在色々と言われているのですが納得できないことの一つに

『他人と比較して人より更に頑張るというのが努力だしそうしないと成長できない。他人と比較せず自分なりにやってるというのは努力していない頑張っていないのと一緒、成長もしない。』

という言葉がありました。努力って必ず他人と比較して頑張るものでしたか?自分としては自分なりの努力というものも努力だと思うのですが、僧侶の方々も修行される際は『他人より更に!』と思って修行されていますか?また一般的には言われていることの方が正しいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

出家の努力、世間の努力

一言に努力と言っても、その形はいろいろあるのですよ。
お坊さんは他人と比較するなと言います。修行道場でも他人と競い合わず、ただ自分自身と向き合います。しかし、それは仏教の目標のためです。ここが重要です。

仏教の目的は「苦を離れ、心の平穏を得ること」です。しかし、仕事の目的は「社員全員とその家族の衣食住を確保できるだけの売り上げをだすこと」です。ここを混同してはいけません。仏教は苦の原因となるので結果を問いませんが、仕事は結果を残さないと誰も生きていけない社会になります。仏教と仕事はまったく逆のベクトルなのです。
一般企業では努力は結果でしか計ってくれません。頑張っている姿を見て猶予をもらえるということはありますが、いつかは結果を残さないといけませんよ。雇用主や取引先としてはチャンスを与えるだけで費用が発生するのですから。

ただし、結果を偏重したらブラックになり、苦から離れることを偏重したら世捨て人になりますから結局は『バランスの問題』です。極論で生きないことが大切です。

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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

自分がただなすべきを為す 他人は関係ない

一休さんは負けん気が強かったから大悟(悟り)を得たといわれます。
道元禅師もお若い頃は妥協や迎合なしに仏法を求め続けました。
その道を究めるための個人の努力、精進、菩提心の深さが問われるのみで、修行に終わりはないと思います。
自分が自分の前に立ちはだかる壁を乗り越えるかどうか、穴をあけて貫通させられるかどうか。
自分が苦しまずになるためには自分を明らかにするための仏道修行における努力はそれぞれ自己責任。
ただし修行に終わりがないというのは、毎日当たらなことが続いていくからこそ、そこで健全な精神を修するということには終わりがないということで、仏道修行には一応の決着はあります。
書道教室で一度習ったら上手に字をかけるかといえばそんな事はありません。
スキーもスノボも楽器も演技も料理もその場での百点満点はあっても一生の完成ではありません。
私は現在も(自己を妄見に旅足せないという意味での)日々の仏道修行は続いていますし、師の元で参禅修行(聞法)も続けています。
仏道修行に関しては簡単に出来上がっちゃうものではないのです。
一度坐禅したらそれでOKならば坐禅堂や修行道場は要りません。アプリで十分。指導者も要らなくなってしまいます。
今も私はたまたま今日はお盆のお勤めが無かったので子供を連れて仮面ライダーゴーストを観に来ています。(僧侶に休みはないぜっ!)激混みです。
正義のヒーローにも永遠に悪玉をやっつけて問題を解決を続けていきます。スタジオ制作者も作品を永遠にとり続けていく努力に終わりはありません。
 
四弘誓願文の中に次のようにあります。
「衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成」

意訳
「自心の迷いの衆生はきわまりないが誓ってこれを救って(解決して)いく。
煩悩は尽きることがないが断ち切っていくこと誓願します。
学ぶべき仏法は無量。これを誓って学びゆくゼ!
仏道に終わりなんてないっ!オレは!オレは必ず成し遂げてみせるっ!」(仮面ライダー風)
私も育メンパパ修行に終わりはありません。
仮面ライダーを観に来たはずがジュ―オージャーが始まって血の気が引きました。(同時上映らしく超~焦りました。←煩悩 迷いを断つ!)
この誓いは仏道を歩むものの誓願です。比較はできません。自分が自分をただ行ずるのみなのですから、仏道においては表彰も評価もされません。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

大慈さん
ありがとうございます。極論になりがちなのでバランスを持って生きたいと思います。
丹下 覚元さん
ありがとうございます。私には少々難しくて理解が難しかったですが読み込んで理解できるように頑張ります。

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