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弱い自分が嫌いです。

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生きているのが嫌になりました。
と言っても最近何か特別嫌なことがあったわけでもなく、ただ漠然と、生きているということから逃げたい、ような感じです。

今自分がいる環境に耐えられないでもなく、何かに最善を尽くして努力した結果だめだったとかでもありません。何もしようとすらしない、ただ楽をしていたいだけの弱い自分が嫌いです。そんなことを一人で考えて泣いて、もっと嫌になって、悪循環です。
家族も友人にも恵まれています。両親には莫大なお金をかけさせて留学もさせてもらって、遠距離の彼氏は電話で泣き言を言っても嫌味ひとつ言わず優しく聞いてくれます。

もっと苦労している人、目標に向かって努力している人は沢山いるのに、面倒なことを避けたいだけの自分がただの甘えのようで、もっと嫌になります。
だったら何か努力しろとか、自分でも思います。怒られて、当然です。

ただ、生きることを自ら選んで生まれてきたのではないから今いる世界から消えることくらい選択肢があっても、なんて考えてしまうのも事実です。
これから先自分に来るであろう課題の数々に立ち向かっていける自信がありません。

まとまりのない文章で申し訳ありません。なにかご助言お願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そういうのを天上界という

天上界とは何一つ不自由しないのに、それでも救われない境涯。
天上界とは一見すると住み心地のよさそうな所ですが、お釈迦様の出家前と同じく、世俗的な栄誉、欲、冠位、なにが手に入っても満足しない心。
あなたに「弱い自分」というふりかけをかけているのは誰でしょうか。
あなたはまっさらなご飯です。
なにもふりかけはかかっちゃいない。
そこに自分の好みのふりかけをかける。
そうするとご飯はふりかけに染まる。
「バカ」とふりかければ「バカ」ふりかけの色に染まる。
「大丈夫」とふりかければ「大丈夫」になる。
「弱い自分」とふりかけるから本当に「弱い自分」だと思い込む。
そう思う20秒前は何でもなかったはずでしょう。
いつから誰からかそう思い込まされたのです。
人の言葉に惑わされ、自分を低く評価するのはやめましょう。
元々はまっさらなのです。本来清浄。
思ったことは、思う前にただその通りにある事実に対して、後から思い起こされたことですから、スロットのように日々変わるもの。そっちを本物だと思わんことです。
本当に何もしないようになることです。
何もしないとはあなたのように何もしないからと言って自分責めをしたり、落ち込んだり、余計な事を考えることすらもしないことです。
そこまで落ち切ると、何でもできちゃうのです。こんな風に。そこまで徹底して無為を成し遂げてみてください。天上、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄の6つの精神世界の無限ループの六道輪廻を出でて、お釈迦様と同じく、7歩目を歩き出す。六道輪廻な生き方を卒業できるようになりましょう。
菩提心。
どんな苦しみの中にあっても悟りを求める心。
これが無ければ人間は慣習に飼われるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答頂きありがとうございます。
ハッとしました。まっさらな自分大切にします。

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