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家系が絶えるのは罪でしょうか

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今年1月末、81歳の祖母が急逝しました。
会館の空きがなく、数日家に遺体を安置し、通夜・葬式と行い、今月16日に49日を行います。

私の家は代々女系で、初代の方は他家からの養女です。
母も一人娘で、私も一人娘です。父や祖父は婿養子です。

私は、この9日で31歳になりますが、現在交際相手さえ居ない状況です。
20代後半はウツで時間だけ経過する状態でした。
自分自身去年の10月から漸く、これからの展望を考えられるようになったくらいです。

まともに仕事も出来ない人間に結婚や育児は無理だと思いますし、昔から男子に苛められてきたため、正直男性より女性を異性として認識しています。

しかし、親が積極的に信仰する宗教で、祖霊祀りをするため、家系図を書いて出したのですが、「先祖は養子を取ってまで、我が家を残そうとしてきた。今、我が家が危ない。あなたがこの家の罪穢を消さないと、子供(私)に移行する」と言われたらしく。。

それを聞いた祖父が、何か言いたいけど我慢する時などにする息の吸い方をしていて、それがストレスになっています。

≪我が家に子供が居ないから墓守が居ない。
お前のせいで家が絶える。さっさと結婚しろ。子供を産め。≫

そう思っているように感じています。

私も孤独死は辛いので、パートナーか同居人は欲しいですが、上記の状態なので、どうすれば良いのか判らず。。
神経性胃炎を発症する手前です。家事に追われてそんな暇は無い風を装っています。
祖父の独断で養子をとるようですが、ある程度貯めたら、家を出ようと本気で思います。

家系を絶やすのは、実家での生活が苦になるほど、ストレス性疾患を感じなければならないほど、悪なのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

家系が絶えるのは罪ではありません。

日本には天皇家があるので、年配の方々は家系や血筋に関しては敏感なのかも知れません。あなたのことを家族がそう責めているのではないかと感じてしまう状況は辛いですね。

子どもがいなかったり亡くなったりすれば、必然的に家系は絶えてしまいます。それはある意味、自力では叶わない領域です。

墓守のことを気にしていて先祖供養の為に家系を維持しなければならないのなら、お寺の合祀墓に遷すなどして、お寺の住職に永代供養してもらえば良いことです。

あなた自身の生きたいように生きていただいても、ご先祖を蔑ろにしていることにはなりませんから、どうぞご安心ください。

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有り難し
おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

家意識という幻想

日本は古来から家意識に縛られてきている民族であると思います。
妙なたとえで申し訳ありませんが、たとえば血統書付のワンちゃんであってもぶっちゃけ200年もさかのぼればみな雑種と言ってもいいのではないでしょうか。
人間の世界も同様で、うん百年とさかのぼれば、家系図など残っているものは皆無です。
あるとしても捏造されたものも多くあるそうです。
私なんぞはどこの馬の骨をしゃぶっていた犬か分からんです(笑)。
人間、自分に心底自信が持てないとそういうものを頼りにするのです。仏教はそういう家の血筋やらをあまり大事にしません。所詮同じ人間ですから。そして、結局個人の人間性、精神こそが、その個人の最大の価値ですから。
おそらく、あと数十年でそういう古風な考えは無くなりますしょう。
家柄、血筋を重んじる思想は場合によっては差別問題ともなりかねないものですし、現在も沢山の結婚差別が起こっています。
本当の意味で家系を守るっていう事は、一家の大事な精神を伝える事です。
お釈迦様のファミリーには血のつながりがありません。でも代々大事にしてきた大切な精神があります。
禅宗では血脈といって、得度をして戒を授かって、お釈迦様の一門に仲間入りします。
それだけでも十分有り難いのですが、さらに修行を進めていって仏法の真意を正しく会得した時、はじめて血脈の真意を悟ります。
人間誰もが持っている、一切の苦しみから救われる、救われている感覚とでも言っておきましょうか。
禅宗では紙の法の血脈はさほど重宝されていません。だれだれの弟子であるとか、だれだれの流れを引いているかというのは表向きのもの、ラベルだからです。大切なのは実質。型式上で認可証をもらってもペーパードライバーでは役に立ちませんので。
申し上げたいことは、もし、その家庭に、本当に受け継ぐべき素晴らしい精神 = 血脈 があるならばあなたはそれをこそ継承すればよいのです。血がつながった中でおどろおどろしい精神を代々伝えてゆくよりは、血はつながってなくてもみなが幸せになれる精神をこそ私たちは後世につたえるべきであります。
その精神があなたにあれば、その遺伝子、精神が誰かに伝わるのです。
仏教の世界のDNAとは精神的な血脈です。ご参考になりますかどうか。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

御礼が遅くなり申し訳ありません。
家系についての束縛からは、抑えられるようになりました。
現在は、また新たな問題にぶつかっており、新たに相談を出させていただきました。
よろしくお願い致します。

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