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何もする気が起きない時

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何もする気が起きない時
何をやってもだるい時

こういった気持ちになった時お坊さん達はどのように対処しているのか、その対処法を教えてはもらえないでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

何もしない

私の場合は、やる気がおきないときは何もしません。

どうしてもやらなくてはいけない仕事があるときは、最小限のことだけします。

やる気がおきないときは、何かをやろうという気さえ起きないのではないでしょうか。

無理はしないでください。

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有り難し
おきもち

好きな食べ物はスイカです。

本当に何もしないという事をやったことが無いのでしょう

クマのぷーさんは言いました。
「何もしないことをしているんだよ」
甘いッ。
本当に何もしないという事は、そんな言動も、一挙手一投足も、ワンアクションも、脳内チラリもない。
本当に何もしないという事は、多くの人はやっているつもりで、どこかしら考えごとやネットやら心の片隅で何か考え事しています。
本当に何にもしなくなる。
本当に何にもしない、という意識すらなくなる。
自分が自分というラベルすらなくなる。
それが坐禅です。
どうせなら、本当に何もしない事をやってみてください。
お釈迦様と同じ心境が味わえます。
坐禅には、坐という事も、禅という事も無かりけり。
ただは只でも真の只には、ただの一念も無し。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

西教寺石橋様

ご回答ありがとうございます。確かに必要以上のことをやろうとするとかえって負担が増すばかりですよね。そう考えると何もしないという選択肢は理にかなっていますね。

安穏寺 丹下様
ご回答ありがとうございました。確かに何もしたくないといいつつ何かをしているということはありがちなことなのかも知れませんね。本当に何もしたくなかったらずっと寝ていることでしょうし。

また、座禅につきましても仏教に疎い自分でも心を無にするというイメージがあるので何らかの形で経験はしてみたいですね。

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