なぜお墓に線香をたてるのか、遺骨は墓にあるのに仏壇があるのか
お彼岸などでお墓参りをするとき線香をたてますが、そういえばなぜ線香をたてるのか考えたこともなく、何気なく行っていました。なぜお線香をたてるのでしょうか?
また我が家には仏壇はありませんが、親の実家には仏壇があります。
遺骨はお墓に眠っているのに、なぜ仏壇があるのでしょうか?
落ち込むと立ち直りにくい
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お線香と仏壇
中間管理職様
宗派により、またお伝えにより違うところはあるかと思いますが、私の聞いてきたところを申しますと。
「お線香」
むかしインドでは、尊敬する人を家に招く時にお香を焚いたことからきていると聞きました。
お香の中を歩くと、暑いインドでもすこし涼しく感じるのだそうです。
また、同じように暑いインドの大地をすこしでも涼しく歩いてこられるように、花びらを歩いている人の前にまいたのがお花を飾ることになったとのこと。
それと、尊敬する人にロウソクを贈ることからロウソクを飾ると聞きました。
このように尊敬する人に敬意を表しているのが、いまのお荘厳だと教わりました。
「遺骨と仏壇」
これは宗派により、より解釈が分かれるところですが。
お釈迦様がガンジス川に遺体を流してくれとおっしゃったように、遺骨に執着することはよくなかったのではないでしょうか。
お釈迦様にそう言われてもその通りにできなかった一般信者がお釈迦様の葬儀を執り行い、遺骨を持って帰ったそうです。
その際、出家者の葬儀への出席はお釈迦様からかたく戒められていたと教わりました。
その信者が持って帰った仏骨をおさめたのが仏塔で、いまのお墓の原型になっているそうです。
それを中心に仏教が各地に広まったのが大乗仏教だと授業で習いました。
また仏壇に関しては、真宗では仏様にあう場所です。
そして浄土往生し仏になられたご先祖にあう場所でもあります。
お骨を礼拝しているわけではないので、お仏壇が必要なのだと思います。
お伝えや宗旨が違うと思うので師匠に聞くのが一番だと思いますが、私のお伝えではこう聞いてきました。
ご参考になれば。
「功徳聚」のすがたとして
御香には「身心を清める」という意があると伺いました。
法句経という経典には、
「花の香りは風にさからって進んではいかない。
栴檀もタガラの花もジャスミンもみなそうである。
しかし、徳のある人びとの香りは、風にさからって進んでいく。」
というように、香りというのは仏教では特別なチカラをもつものだとされて
います。
お墓に御香を供えるというのは、徳(他者・他生への恵み)のかおりを
供えることなのだと思います。亡き人の供養において、いまだ徳の足りてる
とは言えぬ自分をかえりみ、実際に香りのよい香木からとった抹香や線香
を供えて自身の徳を供える、というのが線香を供える意になっていくのでは
ないかと考えます。
遺骨は墓に、仏壇は家に。という事ですが、
釈尊の遺言といえる大般涅槃経において、アナン尊者に転輪聖王、つまり
釈尊自身の遺体の処置法を話しますが、そこにおいて遺骨はストゥーパに
納める、つまりお墓の建立のことを示しています。
前述のように、お墓は遺された者が自分の徳をかえりみる場所であります。
お墓の別名として禅学大辞典というものには「功徳聚(くどくじゅ)」とも
記載されております。自身の功徳を積むこともまた亡き人の功徳になる、
という意なのだろうと思います。
仏壇は、仏教そのものの教えを受ける場所や、或いは沙門、僧侶を迎えて、
いきぼとけに対して供養することもまた自身の徳を積むことであるとして、
そうした方々を迎える場所を自宅に一室設けたのが仏間であり、
更にミニマム化していって仏壇となったのだと考えます。
ようは自宅内の本堂であります。御実家にお仏壇があっても、
自分の家にも簡易的でいいので仏壇をもうけ、ほとけさまや御先祖様に
ご供養する場として頂けたらとは思います。強制ではありません(^^;)
供養とは、自分の中から湧き出る「せずにはおれない感謝・報恩のこころ」
があってそれが形として表されていったものであります。
おひさまが何も求めずともこうこうとひかりを照らすが如く。
ほとけさま、御先祖様がいのちの限りをもって今に私といういのちを遺し、
育んで下さっていることを尊び、そのご恩に報いていく生活の中に、
仏壇やお墓という「徳を聚める」場所があるのだと小生は仏典のことばから
感じるのです。
さちあれさちあれ。合掌。
浄土真宗の立場でお答えします。
〉何故、お墓に線香をたてるのか?
お香は『私を清めて下さる仏様の香り』です。
お花=仏様のお慈悲のお心、蝋燭=煩悩を焼きつくす仏様の光(働き)を表します。
墓前にこれら三種をお飾りすることで、私に対して働きかけて下さる仏様を表現しています。
無くても問題はありませんが、作法の上においては無作法ということになります。
〉遺骨はお墓にあるのに、なぜ仏壇があるのか?
お墓は遺骨を安置し故人を偲び、後世に伝えていく為のモニュメントです。
無くても何も問題ありませんが、特に故人を後世に伝えていくためにはとても大切なものです。
お仏壇は阿弥陀仏のお世界である極楽浄土を模したモニュメントです。
阿弥陀如来が礼拝信仰の対象であり、お仏壇は日々の生活の拠り所です。
お浄土は故人が往かれたお世界でもありますが、あくまでお仏壇の中心は阿弥陀如来ということになります。
信仰の第一歩はお仏壇を迎えることから始まるとも言えます。
本来は誰が死んで迎えるものではありません。
様々なものに疑問を持つことから理解が深まります。
貴重なご質問頂きありがとうございます。
開眼供養すれば、墓石も仏壇も仏様と同じです
供養の仕方について様々な分類方法がありますが、最もポピュラーな分類に五供があります。五供とは、仏前にお供えする五種類の供物(香・華・燈明・飲食・閼伽)を言います。
仏教では、仏道を増益する良く薫るお香、仏が好まれる匂いを、好香と呼びます。仏界に居られる如来や「あの世」に往かれたご先祖様は、現世の食べ物を口にしません。香食と言って、好香の良き匂いを食します。如来は供えられた好香を食し、それに感応して衆生のために手を差し伸べます。香の事を「仏への使い」といい、香を焚く事を通して仏へ信心を捧げてきました。以上の事から、我々は香を焚き、仏様や御先祖様に真心を供えるのです。お墓参りで線香を焚くのも、御先祖様に「食べ物」を供し好香を捧げて我々の真心をお伝えするためです。
仏壇や墓石をどう理解するかについては、宗派によって、また同じ宗派でも人によって説明の仕方は異なる部分はあると思います。「遺骨は墓にあるのに、なぜ仏壇があるのか」について思うところを述べさせていただきます。
お墓も大事。同じように仏壇も大事。何故なら、どちらも開眼法要を行い、仏様と同様のものとしたからです。これが私なりの答えです。
以前、ブログに以下のような記事を書いたことがあります。参考にして下さい。
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「千の風になって」が流行っていた時に質問されたときに次のように答えました。
「 仏教の立場から言えば、墓石は仏塔や位牌と同じ礼拝対象です。墓石を建立した時、点眼という儀式を行います。いわゆる御真入れです。位牌や仏像と同様に、仏様の命を移すという儀式です。だから、位牌や仏塔と同じようにお参りするのです。そして、お墓は亡き人の遺骨を埋葬する場所であり、墓石は亡き人の俗名と戒名を記録する記念碑でもあります。仏弟子となった御先祖を記念し供養するのが、お墓です。ですから、強いて言えばそこに居なくても、眠っていなくても、構わないということになります。しかし、実際問題として亡き人のために手を合わせお参りしようとする場合、その行き先として第一に考えるのが、遺骨が埋葬されているお墓であり、第二に自宅の仏壇であり、第三に菩提寺の位牌堂となるでしょう。
http://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/14855811.html
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宗派によって解釈は異なりますが…
仏壇・墓参・焼香の解釈は、最終的にはそれぞれの宗派の方にお聞きするのが一番だと思います。しかし、それでは満足のいく回答にはならないと思いますので、私の考えを少しばかり述べさせていただきます。
①仏壇とお墓の関係について
仏壇が意味するところは、各宗派によって解釈が異なると思われますが、仏壇の中心に安置されているのは、どの宗派でもご本尊で、故人ではありません。つまり、仏壇はお寺の内陣と同じです。それに対して、お墓は遺骨を安置する場所です。
②墓前での焼香(線香をたてること)の意味について
墓前でのお参りも、各宗派によってその解釈は異なると思いますが、墓前での焼香(または線香をたてること)は、墓前でのお参りが、仏教儀礼としてのお参りの一つであることを表すものだと言えます。