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周りの人に、自分が思ったことを聞かれてしまう

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飲食 厨房スタッフ 3年目です。

二回目の投稿です。

一ヶ月前に昇進してすぐに大きなミスをしてから、心と頭が空っぽのままです。

ここ二週間くらい前から、人に心を読まれてしまうのです。
例えば誰かがミスをした時に、心の中で(ばかだなあ)と思ってしまい、
それがまるで厨房内全員に聞こえたかと思うくらい、雰囲気が悪くなり、
周りの人が物を乱暴に扱ってガシャンと音をたてたり、急に静かになったりと、
きまずくなります。

以前は、スタッフを中傷するような想いは一切する事がありませんでした。
なのに、最近事あるごとに、悪い想念が浮かび、それがある度に周りが同じようになります。

心の内を聞かれることってあるのでしょうか。
私は特にコミュニケーションがあまり上手ではないので、
言葉は普通より苦手です。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分が思ったことに影響されているんです

自己ではなく、他己という言葉があります。
相手、他者、現場に対する自分の内なる思い。
相手を意識する心、相手だと思っている―――「自分の」思いです。 それが他己。
あなた自身の心を一番くるしめているは自分の思いであることがお分かりになりますか?
本当は、相手によって重苦しくさせられているのではないのです。
相手のミスは相手のミス。そこで完結。
あなたはそこでいらぬ二次災害を起こしているからいけない。
☆自分が、相手に対して、二次的にアレコレ思いを起こし、そのガスによって自身を苦しめているだけです。(←わっかるっかなぁ?)
ここが分かれば、実は悟りを開くきっかけになるのです。
あなたの疑問は実は素晴らしい疑問です。(丹下はあまり質問者を誉めません)
いい意味で、あなたは今後一生自分のことしかありません。
本当に自分を生きればイイだけなのです。
相手に対してあれこれ思うのも自分の中。
相手が意識され、そこで活動していることがこの身の上に知覚される。
それもあなたの中の現われ。=他己
それが仏教的、禅的、真実の自己です。
これをきっかけに「本当に自分のことだけをやれるようになりなさい。」
これが結論です。
他がことも、わがこと、自分の上のコトとしてやりましょう。
ただし他人のことで、思いを添えて自分を左右されてはいけません。
職場の雰囲気が悪いのではありません。
ドンヨリするのであれば、あなたがそこに無いものを認めて影響されている姿。
覚者は、それをただそれとしてみる。それだけ。
私も周りが不機嫌でも、私まで不機嫌にならないよう処しています。
内側のフィールドをいつでも、周りから影響を受けないよう、共倒れしないよう処することです。
あなたの気づきは、本当に自分を知るチャンス。
中々そこに気づける坊さんは少ない。
実はあなたの疑問は、大事を悟れるかもしれないhasunoha史上最上の疑問です。
本当に禅を学ぶに値する疑問なのです。
ただし☆のところが分かれば、ですが。これをご覧になられた方で、何かピンと来られた方は是非参禅にお越しください。
☆部分が分かれば初回無料でOK♡
何か感じる所があったら、お寺に悟りを開きにいらっしゃいませ。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

心と頭を健康に保ち、今、この瞬間をしっかり生きましょう

亀山純史と申します。
「目は口ほどに物を言う」という諺があるように、心の内を聞かれることってありますよ。特に、心と頭が空っぽの状態だと、本来、心の奥底にしまっておきたい感情で心と頭が一杯になり、目つき、ため息、ちょっとしたしぐさにまで、その感情が現れます。
そうならないためにも、空っぽ状態の心と頭を健康な状態に保ちましょう。それにはコミュニケーションの上手下手は、とても大切なことです。まずは、大きな声で挨拶することから始めてはどうでしょうか。そして、出来るだけプラス思考でいきませんか。「明日にはまだ失敗がない それだけで生きる価値がある」とは、イラストレーター326(ナカムラミツル)さんの言葉です。そして、「今、この瞬間をしっかり生きること」これが仏教です。瞬間(刹那)の積み重ねが、未来のあなたを作ります。
失敗(ミス)は、絶対あってはならない失敗と、人を成長させる失敗があります。絶対あってはならない失敗とは、たとえば医療ミスによる患者さんの死亡でしょう。一方、人を成長させる失敗とは、数限りなくあります。私たちの生活そのものが、そのような失敗の連続ではないかと思うほどです。そして、質問者のゆみこさんには、どうかそのことに気づき、自分の成長の糧にしてもらいたいものです。

仕事をして三年目は、離職率が高い、節目の年のひとつです。是非、自分の仕事に誇りをもって、頑張ってください。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

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