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自分を受け入れること=開き直ることですか。

回答数回答 2
有り難し有り難し 51

(借金をまだ返し終わっていないのですが、すみません、投稿します。)

毎日hasunohaを閲覧しています。
同じような質問で申し訳ありません。
よろしくお願いします。

プロフィールにある通り、私は人間の出来が良くありません。

34年生きてきて、さすがに、自分は阿呆なのだと自覚するようになりました。

ですが、まだそのことを心情的に受け入れられません。もう少しマシな人間だったらいいのにという悲しさがあって、阿呆のままで良いと思えないところがあります。奮闘努力して性格を改善させないといけないと思い込んでいる。

いろんな人間がいて良いんだと思うんです。

ですが、「ありのまま」を受け入れようとするときに、その実は阿呆であるということ気づくことは、なかなか悲しいものがあります。

「生まれてきただけですごいこと、存在しているということはそれだけで祝福されているということ」と言われたりしますが、ボケ〜っと生を感謝して生きているだけってのも、良いんだろうけど、良くないような…。

「有能でありたい欲」のようなものが大きくあって手放せないんです。

人間、開き直ることは、大事ですか。
開き直ることで、気持ちは楽になりますか。私の場合、開き直ることは諦めることに近いように思えて、なおさら悲しくなります。

阿呆でも生きていて良いんだと思えるようになりたいです。

頭デッカチなんですかね。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

アホでいいんだ、と大いに諦める。

こんにちわ。
40年アホで全うの借金まみれ(寺のローン)のばかアホまぬけの丹下ぽんげです。
まだまだ一線を越えられてはいませんね。
もう少しあほになった方がいいと思います。
アホもバカもちょっとエネルギーのかけ方一つで天才バカボンにもバギャボン(仏陀)にもバガボンド(放浪者)にもなれます。
そのリミッターを外しに時期を見計らって坐禅会におこしやす。
坐禅会って坐禅をするところじゃありまへん。
自分のカギをかけて閉ざしたままにしている引き出しをバコーンと開くことです。
求める気持ちの無い人には馬の耳に念仏、豚に真珠、ネコに小判、ヌカに釘、のれんに腕押し。
捨てられない最後のプライドの壁をアホになってビターン!と五体投地することでマンガのように👤穴が開いて壁を超えることができます。
潜行密用は愚の如く魯の如し。
アホだアホだと自分を責めるより、アホの壁をぶち抜いて賢愚を超えた天地に一箇の大平凡におなりなさい。
自分の思いに責められないようになることです。
あなたは賢いからアホのふりして小賢しい自分の思いにバカされているということを知りなさい。喝!

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

正直になる

開き直るというよりも、正直になる、という方が合っているかと思います。
自分の気持ちに正直に話し、行動すること。
楽しい時は楽しいと言い周りの人にも楽しみを分けてあげて、苦しい時は苦しいと言って周りの人に助けを求める。
阿保だなと思ったら阿保だなと言って反省し、有能になりたいと思ったら有能になりたいと言って勉強する。

とはいえ、社会の中では自分の気持ちと行動を一致させる事は難しいです。
でも、なるべく一致させていきましょう。
それが自分を受け入れることです。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

質問者からのお礼

◆聖章さま
お答えいただきましてありがとうございました。私には思いつかない答えが返ってきて、驚きました。流石です…。

なるほどぉ!自分を受け入れることは、開き直ることではなくて、正直になることだと思うと、明るい気持ちになります!生きていて良いんだって思えます!

私のような人間が修行という言葉を使うのは相応しくないかもしれませんが、一生かけて少しずつ人間らしくなっていくような成長のペースで、時々嫌になりますが、人生という修行の場から降りることを諦めないようにしようと思います。

楽しいときは楽しんで、悲しいときは悲しんで、頑張れるときは頑張って、怠けたいときは怠けて、怠け過ぎだな頑張ろうと思ったらまた頑張って、そうやって生活しながら、だんだんと、悪い行いを減らして善い行いを増やせるようになればいいのかなって思いました。

「社会の中では自分の気持ちと行動を一致させることは難しいですが」というひと言に救われた気持ちになりました。

お答えくださり、どうもありがとうございました!!

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(訂正)
×修行の場から降りることを諦めないように
○修行の場を降りて諦めてしまうことのないように

(そそっかしくてすみません…(ー ー;))

(追記)
あと、「言葉に出す」ことなんですね。ふむー。周囲に素直に正直に気持ちを言う、これが出来たら気持ちが楽になるだろうなぁと思いました!気持ちを押し殺して溜めてドロドロの沈殿物を作り、許容量を超えると撒き散らしてばかりです。(こういったお悩み相談とかに…。)いつか素直に出来るようになるぞー!!

重ね重ね、ありがとうございます。

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◆丹下覚元さま
お答えいただきまして、ありがとうございます。喝!有り難く頂戴します。

ぬっ!まだアホさが足りないとは!

はい…、そうなんですよね。ごちゃごちゃと考えて自己卑下で疲れて何やってんだか…と思います。ぶち抜けたら、いいなぁと、思います。そうして、慌てずゆっくり、自分で自分を自分する、を積み上げて(掘り下げて?)、続けていけたらいいなぁと思います。

思ってばかりではなくて、行動せねば。何でこんなに馬鹿みたいにプライドが分厚いんだか。壁を超えたいです、是非とも。

楽しいお話をどうもありがとうございました!!

もっとお話を伺いたいので、また坐禅会に行きます。

(追記)
嗚呼ダメだ!!何にもわかってないのに偉そう自分!!慇懃無礼!!大変失礼致しました!!

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ