生きる
いつも、相談にのって頂き有難うございます。
今日、83歳になる父親から「この世が嫌になったよ…。」と、言われました。
父は、病気を抱えながら要介護1の母と二人で暮らしています。
よく、仏教の話をしてくれるので、「いつも仏教を学んできた、お父さんらしくないじゃん。私もこの頃、勉強しとるんよ。一切皆苦、世の中思い通りには、ならんらしい。」と言うと、ラジオで、いい法話やっとるの聞いてみんさい。と教えてくれました。
病気を患い気弱になっている父が心配です。何か、前向きになる、お言葉があれば教えて頂けないでしょうか…。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生きるということ。
法華経好きの私は、やはり、宮澤賢治の「雨ニモ負ケズ」が年々深く心に沁みてきました。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
信仰で必ずしも人の苦しみが救われるわけがありません。生老病死の苦しみの中で、泥臭く生きていく人生にしたいと思っています。読めば読むほど自分の人生を見つめることになります。この詩の本はたくさんあるので、是非ネットで探して購入し、お父さんにプレゼントしみてください。
明日、9月21日が、宮澤賢治の命日です。
合掌
病気のご縁を活かして
娘さんとしては心配ですね。
83歳の父親、私の師匠の祖父は91歳。
バリバリの仏教徒(当たり前か)でしたが、似たようなことを言う時あります。
20代の目線、30代の目線…80代の目線。
その年齢になってこそ見える景色や想いはあろうかと思います。
高齢者は特に、同世代が亡くなっていくこと、身体の自由がきかなくなること、死が現実のものとして近づいている気がすること、、、
色々と切ない胸中を抱えることがあることでしょう。
お釈迦さまは「私の教えを頼りにしなさい」「教えを私と思いなさい」と仰いました。
「私も仏教を学び始めたよ、だからまだまだ色々教えてよ」って言葉は嬉しいと思います(^^)
元気付ける言葉になるかどうかはわかりませんが、病気という観点から祖師の言葉を…
「浄名経涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり」
(お経には病がある人は仏になると説かれています。なぜなら病によって仏道を求める心が起こるからです)
病気は辛いものですが、それによって新たに見える見解があります。
病気になるということは、実体験によって仏教とさらに縁を深めるチャンスなんです。
病気でも何でも「思い通りにしようとするから苦しむ」のですが、それを踏まえた上で「お父さんの当病平癒を願ってお参りするからね」って励ましてあげて欲しいです。
私も願っています!合掌。
いま、ここを生きること。それ自体が美しい修行です。
若葉よしわくら葉もよしくれないに
黄に染め上げて散りゆくもよし
春秋のよそおい捨てし裸木の
ただ粛然と天に向かえる
曹洞宗の青山俊董老師による二首です。
萌ゆる若葉、色とりどりの紅葉、虫食いや病葉(わくらば)。全てが木の一部であり、それら全てがあるからこそ、木々には奥深い美しさがある。人生も同じではないでしょうか。生老病死やそれに伴う喜怒哀楽があるからこそ、味わいがある。
年を重ねることは、それ自体が大きな修行だ、と思うことがままあります。
若さに任せて「未来」や「ここではないどこか」を追いかけることも、「過去」や「あのときの自分」に戻ることもできません。健康な若者よりも「今」「ここ」にある命に肉薄し、己というものに深く向き合わなくてはならない。その真剣勝負を思うと、自然と頭が下がります。
私は、こういうことについて考えると、祖母のことを思い出します。
祖母は、共働きの両親に代わり留守中の面倒をみてくれていましたが、晩年は、認知症や病気で家事をする機会も減っていました。
そんな祖母の最後の家事分担は、洗濯物をたたむことでした。
一枚のシャツを膝にのせて、居住まいを正す。
ひとつひとつ丁寧にしわをのばし、端と端をしっかりとあわせる。
ゆっくりと重心を動かし、次の洗濯物に手を伸ばす。
聞こえるのは、祖母の呼吸の音と、外の道路を走る車の音だけ。
祖母自身には、それすら聞こえていなかったかもしれません。
偶然その姿を目撃した私は、その美しさに驚き、しばらく声をかけることができませんでした。
祖母の代わりに私が畳んだほうが、早く終わったかもしれません。
しかし、注目すべき点は、効率や出来栄えではなかった。
祖母が洗濯物を畳んでいるという行為そのものが、尊い修行だったのです。
結果を問うことも、何かと比べることもなく、淡々と目の前のなすべきことに専念する。その姿勢がなんの変哲もない作業を、息をのむほどの美しさにしました。
今振り返れば、あの時の祖母の姿は、「ただ粛然と天に向かう」裸木であり、坐禅する仏の姿そのものであり、それは祖母の病や老いた肉体があってこそ、行きついた境地だったと思います。
過去や未来がどうであろうと、大切なのは今ここで、どう修行をするか。
お父様が日々の営みを修行とし、そこから生きる喜びと誇りを得られますように...
合掌
前向きになれるかどうかはわかりませんが
http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/shoshinge/shoshinge68.html
これが私は好きです。
われわれは、すでに救いのなかにある。
だけれど、煩悩によって、その事実が見えなくなっている。
現代語の意訳だとこんな感じでしょうか。
http://seiten.icho.gr.jp/html/401.html
>前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。
真実の教えが、師匠から弟子へ、またその弟子へを伝えられてきた。
これからも、伝えていきたいと願っていますよ。
現代語意訳だとこんな感じだと思います。
質問者からのお礼
染川様
日顕様
佐藤様
妙香様
有りがたい、お言葉を頂き感謝します。
その後、姉と実家に帰る日をできるだけ増やして、父と話を沢山するようにしました。
すると、食欲も出てきたように感じます。病の不安と寂しさを抱えて、日々生きているんだなあと思います。
雨ニモマケズ…。
病がある人は、仏になる。新たに見える見解。
前に生まれん者は後を導き。
今、ここでどう修行をするのか、日々の営みを修行する。
どれも、心の中に刻む大切な有りがたいお言葉です。
忘れないように、ノートに記しこれからの人生に共に学び生かしていきたいと思います。
有難うございました。