娘の死
2度お答えいただき、苦しくなると読み返しております。
二女ですが、あまりお姉ちゃんの話をしませんし、手を合わせることもしないのです。
5年生です。病院では号泣しており、通夜、葬儀を終えてから泣くことはなく、私に泣くなと言います。今月運動会がありますがお姉ちゃんを思い出して泣かないでよと言います。
私を見て!だと思います、もちろん支えてくれています、いとおしいです。でも四六時中長女が頭から離れずにいますので二女にも伝わっていますよね。私の気持ちが定まらず辛いです。
二女がかわいそうだと思いますが、涙が出る毎日が辛いです。思い出す事が辛いのはわかるのですがそればかりなんです。
二女に悪い気持ちでまた辛いです。
それから夜中何回も二女が息をしているか確めるようになりました。
いろんなことを思いすぎて自分も周りも疲れてしまいますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
相手とは別存在であることを自覚し、自分を生きる。
タイトルからすると冷たいと思われるかもしれませんが、単純に考えずに、平易な言葉ではありますが禅の修行的にも大変深い意味がありますので、よーく吟味なさってください。
人は大きな喪失体験をいたしますと、防衛精神が盛んになります。
「またあのような恐ろしい、悲しいことが起こるのではないか」
その反応として、怒り・恐れ・不安・悲しみが沸き起こるのです。
時々過去に戻られてしまう、思いの中で生活されておられるから、現実の中の正しい真実に対して、自分の思いを重ねて脚色してしまうのでしょう。
あなたが今なすべきことは、自分の中のあるべき理想状態を捨ててしまうことです。
無意識のうちに「こうあって欲しい」という理想、期待、設定が強く現れているのではないでしょうか。
自分の中で「私の生活はこうあるべきである」という理想が高ければ高いほど、現実の生活がちょっとでもズレると、ハラハラするものです。
これはじゅんちさん限らず、誰もが皆そうです。
設定やマイルールが無くなれば、良かれ悪かれ今の現実を一つ一つクリアーしていく他にやることはありません。
“自分を生きよ”
お子さんが心配、お子さんに悪い、お子さんに気を使う、もっとしっかりしなきゃ…
これらは皆、誰がその思いを起こしておられるのでしょうか?
間違いなく、あなた自身なのです。
仏道とは、自己をならう道です。
あなたは問題が無数にあると思っておられるが、そうではない。
長女、次女、と思いを馳せて一日に108はおろか無数に気苦労されているのは、
たった1つのあなたの心、それ一つだけ!なのです。
だからこそ、問題を多岐にわたらせず、根源の自分をきっちりと生きなければいけない。
それは悪いことではない。正しい生き方なのです。
自分が自分をしっかり生きる。
アレコレと外のことのように思っておられることも全部「自分のやっている思い」であることに気づく。自分を責任持って生きる。まずは外のことをあれこれ思われるよりも、自分の心を調えることです。もう一度申し上げます。自分をしっかりやるのです。
何故ならば、次女に本当に悪いと思われるならば、あなたがもとのお母さんに戻ること。たとえ長女が亡くなってもあなたが元のお母さんであること!自分をしっかり取り戻すこと!それが長女さん、次女さん、そしてあなたの一番の安心、笑顔に繋がるからです。
微力ながら
じゅんちさん。
おつらい日々をお過ごしのことと存じます。
また、ご主人も二女さんもそれぞれの悲しみがあり、苦しんでいらっしゃるのだと思います。
二女さんは、母親の悲しむ姿を見るのが辛いのでしょうね。また、自分が母親の悲しみを埋めることが出来ないのが辛いのかもしれません。
「お姉ちゃんに手を合わせることもしない」とありましたが、私も父が突然亡くなった後、1年間は遺影を見て手を合わせることが出来ませんでした。
そして丸2年経ち、三回忌を終えてようやく父の死が腑に落ちました。大切な人の死を受け入れるのには、それだけ時間がかかるのだと思います。
「七子のたとえ」という仏教の話があります。
『例えば子どもが7人いて、そのうち1人が重い病気になった。親は7人の子どもを平等に愛しているのだけれども、その時だけは病気の子に愛情を注ぐ』という話です。
二女さんに、じゅんちさんの思い(二女さんをいとおしく思っている、けれど長女さんを悼む心が深い)を率直に打ち明けてみてはいかがでしょうか。
ご家族の誰もが傷つかない方法は無いと思います。
共に苦しみ、そして乗り越えてゆくことを、心より念じております。
私も微力ながら、hasunohaを通じてお手伝いさせて頂ければと思います。
葛藤したり、悲しんだり、受け入れたり、ふりまわされたり
じゅんちさん、こんにちは。
長女さんのこと、お悔やみ申し上げます。
病気というのは身体の中のことで、パッと見ても分からないことです。まして肝臓ですから、とても分かりにくいと聞きます。毎日接していても、家族であろうと、先生であろうと、友達であろうと分からないものです。
さて、じゅんちさんのお言葉から分かることはなんでしょうか。
それは娘たちのことを愛しているということです。悲しいはずです。それにきっと次女も悲しくて涙しているはずです。私たちの知らない、見えない場所でです。
心にぽっかりと穴が空いたかのよう、と言いますが、その穴とは失ったものがあったはずの空間のことです。
では、その空いた穴をふさぐことは出来るのでしょうか。あったはずの空間、長女さんの存在感は大きいものです。お腹を痛めて産み、15年という年月やこれからを見守り続けるはずでした。それだけ長女さんは大きい存在なのですから、1週間、1ヶ月、1年と・・もっと時間がかかるかもしれません。
しかし。空いた穴は大きいけれども、それだけ大きな存在(長女さん)に今じゅんちさん自身、見守られてもいる・・・と考えることができます。
葛藤したり、悲しんだり、受け入れたり、ふりまわされたり。人は空いた穴をふさぐために右往左往します。そして、順調に穴をふさげるかというと・・・出来ません。むしろ、行ったり来たりを繰り返すだけとも言えます。
なぜなら、穴が空いたという事実は変えられないからです。
もう後戻りはできません。長女さんにとっても、同じことです。じゅんちさん、ご主人、次女さんにとっても。
だからといって、事実を今すぐに受け入れなければならないわけではありません。
これからの『時間』が変化を与えてくれるはずです。私たちが私たちの道を歩むことが、長女さんが長女さんの道を歩むことにもなるはずですから。
私も微力ながら、hasunohaを通じてお手伝いさせて頂ければと思います。
じゅんち様
とても書き言葉では表せない位の、つらい日々をお過ごしの事と存じます。
次女様の其の行動に、お母様で有るじゅんち様は反応したく成るのも判りますが、今はお母様の気持ちを押し付けないであげて下さい。
と言うのも、浦上 哲也 師も申して居られますが、「大切な人の死を受け入れるのには、それだけ時間がかかるのだと思います。」と言う事です。
大人の、其れも僧分の方がそうなのですから、お子様では尚更です。
また、次女様はお母様で有るじゅんち様の悲しむ姿を見るのが辛いのでしょうから、自分を押し殺してまでお母様で有るじゅんち様に対して、一生懸命に虚勢を張っているのではと存じますよ。
ご主人様や、お母様で有るじゅんち様次女様が、同じ哀しみを共有しているのですが、表現方法が違う事が有ると言う事実もご理解下さいな。
また以前の書き込みにも書き記しましたが、こうして此処に書き込み為さる事も良いのですが、 ご葬儀の折にお世話になった菩提寺のお寺様が居られたならば、一度お話を伺われたらと存じます。
または、当方(090-3390-2137)へのお電話でも宜しいですよ。
書き言葉だけでは受け手である我々が、お母様で有るじゅんち様のお心との共有にズレが生じる恐れも懸念致しますので…
どうぞ、ご遠慮なくお話を為さいませ。