どうして頑張ることは偉いのですか?
小さい頃から努力することはそう苦ではありませんでした。
頑張って結果を出せば出すほど、周りの人に褒められることが嬉しくて、また頑張ろうと思えました。
けれど、虚しさもありました。周りの人はみんな結果しか見てくれず、私の内面を知ろうとする人がいなかったからです。
クラスメイトや友達の私に対する印象はいつも同じで、どれだけ頑張っても結局は上部しか見てくれませんでした。
しばらくして、私には親友と呼べる存在ができました。その子だけでなく、新しくできた友人はみな私のことをちゃんと理解してくれました。
その時から、私の中で努力をする意味が無くなりました。今まで頑張ってきたのも、全て私を理解してくれる人を待っていたからです。
でも、努力せずとも私を理解してくれる人が現れてからは、頑張ることができなくなりました。
このままではダメだ、頑張らないといけない、でも頑張ることができない。悩んでいたある日、ふと心の中である疑問が湧き上がりました。
それがタイトルにある、「頑張ることはどうして偉いのか」です。
その疑問が浮かんだ瞬間、私は頭の中が真っ白になりました。それからずっとこの問いの答えを考えていますが、一向に納得のいく答えを見つけることができずにいます。
どうかお願いです。どうして頑張ることが偉いのか、私に教えてください。
答えを見つけることができたら、昔のようにとは言わなくても、また頑張ることができると思います。
どうか、お願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
間違った努力もある
禅では間違った努力は良くないこととされています。
たとえば心を静かにさせるために
「オレの心よ!静かになれ!静かになれ!!静かになれ!!!静かになれ!!!!オレの心よ‼‼!!!!静かになれ!!!!!!!!静かになれ!!!!!!!!!オレの‼‼!!!!!!!!!!!オレの心よ‼‼!!!!!!!!!!静かに…ッ‼‼!!」(👊うるせえよ)
…といった具合に、間違った努力をすることは偉くも何ともありません。
頑張ることは別に偉くはないですよ。
仏教では精進という言葉がありますが、間違った努力や間違った精進もあるのです。
おそらく精進というと一所懸命とか一生懸命にやり続けることであると世俗の仏教では説きますが、
悟った人はそれは間違った精進であると言われます。
「向かっているその事に対して、思考や私見、思いを混入させることなく、間断なく事実に住する事」が精進なのです。私も一般的な仏教書に書かれていた精進を「頑張ること」のように思ってやっていましたがまるで効果が無かったのです。仏教においては「悟り」を重んじますが、間違った精進、間違った頑張りは苦行に等しいものです。
きちんとした成果の出る修行でなかったら頑張り損です。
やってて効果のないものを仏道修行だと思ってやることをヨシとする人間もいますが、そういう人間に限って実際は幸せでなかったりするもので、巻き添えをくらわせているだけだったりするものです。
私はかつてそういう目に遭ったので、正しい頑張りを愛します。頑張ればよいのではないのです。
効果、実効性のある頑張り。これは大事なことです。
同じ素振りを千回するにしても、実践に役立たない素振りは文字通りからぶりです。
空振りは空振りなのですが、良し悪しをそこに生じなければその空振りも仏道です。
ですが、それでもどこまでいっても、やはり、やみくもの空振りもあるのです。
道を究めるにも本当にいい先生に出会わなければ魔道に向かう事もあるのです。
宗教者、僧侶、先生だって魔物はいます。魔導師に師事して頑張ってもテロの道を歩む場合だってある。
無意味こそ最高!みたいなエセ空振り最高論やエセ頑張ればいつか報われる至上主義にはご注意を。
あなたのむなしさや疑問はそこにあるのではないでしょうか。
いい問いですね。
とても良い疑問だと思います。こういう問いが出ること自体、あなたが真っ当に成長されてきたことを示していると思います。
…ごめんなさいね、上から目線で。でも私も同じ疑問を感じつつ、それを考えたり忘れたりしながら過ごしてきたのです。
言葉の整理、言い換えを考えましょうか。「頑張る」これ、どういうことかしら?「努力」「一生懸命」と同じ?それとも異なる?勉強とかスポーツとか、あからさまな結果が出る事に繋がってる?怪獣事典を全部覚えようとしている子は頑張ってる?お母さんが食事を作るのは頑張ってる?お父さんが仕事をするのは頑張ってる?
そして「偉い」。これも何だろう。社会的な地位を得る?権力を得る?内容はないけれど褒めている?
…何となく意味は通じるけれど、考えると良く見えなくなりません?
さて、今のところ僕が考えていることを書きます。僕の個人的見解です。
「頑張ることは偉い」という言葉の意味は、「それ自体が遊びであったり楽しみでない事について、何らかの結果を目指して努力する事、を讃える」です。
大人になると、「仕事してきまーす」と言って会社に行くけれど、実は楽しみのためにやっています。僕らもそう。お葬式の場へ行くのは気が重いよ、けれど、そこで貴重なお話を聞くことができたり、少し人様に安心を提供できたりする。それが楽しいの。ワンシーンではなく、ストーリーとして、自分のやっていることが楽しいの。分かりにくいだろうけど。
大人になるとね、「テストの成績が良かったね」とか褒めてくれて嬉しいからやる、そんな動機は殆ど効きません。寧ろ恥ずかしいと僕は思います。テストがあったとしたら、大概資格試験という事になるけれど、資格を得た後にフィールドが広がるのが楽しいの。褒めてもらう、は本質じゃない。
そういうふうに、大人は自分で自分を評価していかなきゃならないけれど、あなた方(学生さんでしょ)は未だその段階にない。学ぶこととか、器が大きくなることとか、そういう「いずれ、より色んなことを楽しめる人になるため」の土台をやってるからね。そう、偉いからじゃない。「将来、どうせ色んなん事に出会う。その時、その環境から学び、楽しむ可能性を広げる事に繋がる」。そく楽しい事ではないけれど、自分の将来に期待する意味で学ぶ。もう自分なりに、仮でもいいから考えを持つ時期なのでしょう。
努力すること、頑張ること自体に良し悪しは無し。
はじめまして。亀山純史と申します。
努力すること、頑張ること自体に良し悪しはないのです。自分の努力がほかの人のためになるならば、その努力、頑張りは尊いと言えるでしょう。大切なことは、何に向けて努力するのか、頑張るのか、ということです。“周りの人に褒められることが嬉しくて努力する、頑張る。”ということだけであるならば、それは自分自身に向けられた努力、頑張りでしかないでしょう。仏教は「自利即利他」を説きます。頑張った結果は自分だけが受け取らない。頑張った結果は、ほかの人にも振り向けることができるものでありたいものです。勉強だってそうです。単なる知識欲を満たすだけに勉強を頑張るのは、仏教の精神ではないでしょう。頑張って身に着けた知識をほかの人のために役立てようとする姿勢(それはすぐには成果としては現れないかもしれませんが。)こそが大切なのです。
以上が私からの回答です。少しでもお役に立てれば幸いです。
無責任な教育論だと思います。
私の意見は偉いか?と問われると頑張っているときが楽しいと思ってしまいます。スズメさん、頑張るあなたは今までいろいろ大変な思いをしてきましたがお疲れ様でした。少し休憩中かなと思います。正しく一休さんですね。「ひとやすみ ひとやすみ」。しばらく友達と交流して色々な経験や人間を観る時間です。これから先いくらでも頑張らなくてはならない時期が参ります。慌てるべからず。偉いかどうかはもう少し時間をかけて見つけませんか?私は楽しいという回答も時間が経てば変わると思います。それでいいのです。今、回答を出さなくても、自然の流れに身を任せましょう。自然の中で必ず頑張る機会が訪れますよ。その時には逃げずに頑張れる方法をあなたは知っているはずです。あなたの頑張れる方法で物事を乗り切って下さい。また、質問があったらいつでも聞いてきてください。
質問者からのお礼
柳原貫道さんへ
回答ありがとうございました。インドの聖者のお話と柳原さんの努力への解釈、タメになりました。また頑張ることができるように、まずは自分を高めるための努力を始めてみたいと思います。ありがとうございました。
大鐵さんへ
回答ありがとうございました。暖かいお言葉ありがとうございます。自分を見つめ直したら、たしかに少し気が急いていたところもあったのかな、と思います。ありがとうございました。
亀山純史さんへ
回答ありがとうございました。他の誰かのためになる努力、という考えは思い浮かびませんでした。自分ではなく、他者に重きを置いてみることで、自分なりの回答を考えることができそうです。ありがとうございました。
丹下覚元さんへ
回答ありがとうございました。最初の部分の長い「」の中身で、笑ってしまいました。少し気分が晴れたような気がします。ありがとうございました。
佐藤良文さんへ
回答ありがとうございました。周囲の社会に出ている人達には何となく聞きづらくて、一度もこのような質問をしたことがありませんでした。ですから、そういった観点からの考えも聞くことができて良かったです。ありがとうございました。