やるせない気持ちはどうすればいいんでしょうか?
昼間にあったことでもやもやした気持ちが晴れません。
昼間駅の出口で外国人に祖国の生活に困っている子達への支援という名目の募金を頼まれたので募金をしました。家に帰ったってそのことを話したら家族にその募金は怪しいよと言われました。
確かに家族の言う通りよくよく考えるとおかしなところが多かったのでネットで検索したら募金を求めてきた外国人と募金詐欺の手口がぴったり一致しました。
誰かのためになればという気持ちを踏みにじられた気がして悲しいやら怒りがわいてくるやら失望感やらでなんといえない気持ちです。
この気持ちはどうすればいいでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
三輪清浄(さんりんしょうじょう)の布施
募金は仏教でいうと布施(ふせ)行の中の財施にあたります。財物を施すということです。
この布施というのは
「施す者」と「施しを受ける者」と「施される物」
があって初めて成り立ちます。今回は
施者:あなた
受者:理由はどうあれお金に困った外国人
施物:お金
だったわけですが、「施しをする心の余裕があったあなた」と「他者に施しても生活に困らないだけのお金」と「お金に困った外国人」のどれか一つでも欠けていたら布施は成り立たなかったわけです。布施をしたんですが、実は布施をさせていただいたということです。
この布施行の完成は「私が物をほどこした」という思いに執着しないこと。布施する者、布施される者、施される物がたまたま整って布施が成立したのだという関係性に目覚める事です。
つまり、施者が受者や施物と無関係に先に独立してあるわけでなく、お互いに他の二者との関係性において成り立っているということです。
これを「三論清浄(さんりんしょうじょう)の布施」と言います。
今、あなたはすでに手放したお金を頭の中ではまだ掴んでいる。しかし実はそのお金は募金させていただいたのだという関係に気づき、手を放して苦しみから解かれなければなりません。
確かにその外国人の祖国の生活に困っている子達への支援にはならなかったかもしれない。
しかしなんらかの理由でお金に困っているその外国人への支援にはなったわけです。
それでも納得がいきませんよね?外国人が生活に困窮していたならまだよいとして、犯罪組織の資金源にでもなっていたら?とモヤモヤしますよね。
本当にその外国人が施されるべき物は布施の中でも財施ではなく、
法施(ほうせ):正しい教えを説き与える
無畏施(むいせ):恐怖から免れさせる
だったのかもしれません。そんなことをしてお金を手に入れるのはダメなんだよと諭してくれる方や、貧しさに恐怖する彼に寄り添う支援者が必要だったのかもしれません。
東日本大震災後時には募金を募る団体でも怪しい団体が出てきたりして、きちんと募金先の情報について確認しようという流れも出来ましたね。
つまり施す側も正しい施しをするための目が必要ということです。そして一度施したからにはもうそれに執着しない。
今回は施者としては未熟だったかもしれないと受け入れ、これからに活かしてみませんか?
質問者からのお礼
吉武文法様
回答ありがとうございます。
今回のことはいい勉強になったということで次にこの経験を無駄にしないで活かすことに目を向けてみようと思います。
確かにおっしゃる通りで振り返ってみるとお金や施したという気持ちや思いがあったのだと思います。
いきなりは難しくても少しずつでも執着心を減らしていけるように心がけてみます。