運命は決まってるのですか?
享年29歳で私の子供が事故で亡くなりました。あるお人に聞いたところその子の運命は生まれる前から決まっていたとの事、子供は親を選べないと言いますが、そうじゃなくそれも生まれる前からどの家に生まれるかも決まっているとの事でした。私の家に生まれて不幸だったのか、子供の今までの人生を考えるといたたまれない気持ちで、まだ死を受け入れきれなくてどうしようもないです。もうすぐ四十九日です。何も手に付かず悲しい毎日を送ってます。教えて下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
運命論は安易な現実肯定論
亀山純史と申します。
仏教では運命論を説きません。仏教では「様々な因縁(直接的な原因と、間接的な原因)によって物事は生じる」という因縁生起で物事をとらえます。もしも、この世が運命で動いていたとしたら、4年前の東日本大震災や、ネパールでの大地震も、運命だというのでしょうか。運命論は安易な現実肯定論でしょう。そしてこの安易な現実肯定論は、正しく物事の道理を見ることを妨げてしまいます。つまり、結果ばかりに目が行き、その原因(因縁)に目を向けることができなくなります。原因(因縁)に目を向けることができなければ、不幸な出来事の再発防止へとは繋がっていかないでしょう。また、人生は運命で決まっているとしたら、未来もすでに決まっているはずですが、未来を正しく予知することができる人は誰もいません。ですから、人生を運命ととらえることはナンセンスです。そして人生には喜ぶべき幸運も悲しむべき不運もなく、ただ決められた運命があるのみということになってしまいます。
さて、29歳の若さであなたのお子さんが亡くなられたとのこと。心中、お察し申し上げます。私の最近のhasunohaの回答でも述べましたが、故人はあなたに自らの死をもって、仏教の教えの要である「諸行無常」、すべてものは悉く過ぎ去っていくものであることを教えてくださっていると捉えてはどうでしょうか。平安朝の女流歌人の和泉式部は、幼い我が子の死を悼んで、「夢の世に あだにはかなき 身を知れと 教えて帰る 子は知識なり」と詠んでいます。「幼くして逝ってしまった我が子は、この私にこの世の無常なることを教えるために、生まれ、そして死んでいった仏様だったのだ。」ということです。あなたのお子さんが一番喜んでくれることは、その死を受け入れることができない状態で生活をすることではなく、悲しみの中にも、その死を通して、この世の無常をしっかりと受け止めて生きて行くことではないでしょうか。もしも、あなたがお子さんの死を受け受け入れられず、その後の人生が充実したものにならないとしたら、あなたのお子さんは、自分の死が原因でお母さんは苦しんでいると思うでしょう。それはあなたのお子さんにとって、喜ばしいことではありません。
以上が私の回答です。すずさんの心の癒しに少しでも役立てばと思います。
いのちは生命とは違うもの
「いのち」を授かり「いのち」を全うする。そして姿かたちが消え亡くなった後もいのちは存在し続けます。質問者さまのすぐ近くで。感じることも見ることもできなくなりますが、より近くに存在しているという考え方もあります。
運命のようなことが決まっているのかどうかは分かりませんが,ある条件がそろい生命が誕生し,ある条件により生命が消えます。
仏教では49日で生命が生まれ変わりまた新しく誕生するといわれています。
1つ言えることは、質問者さまが今も亡くなったお子さんのことを思っているということ。それだけの愛情があれば、きっとお子さんにも伝わっていたことでしょう。そしてきっと幸せを感じていたことだと思います。
仏教は決まった運命ではなく 因 縁 果 変えられる命運
謹んで、ご子息様のご冥福をお祈り申し上げます。
今は大変お苦しいこととは思われますが、ご子息様のご遺影、お位牌、墓前にお手合わせをして、ご身心中のご子息様とお話をされる中で、少しづつ、次第に真実に目が開かれ晴れやかな気持ちになっていかれる事と思います。
ご子息様の今まで立派に生きてこられたこと、尊厳を讃えられ、褒めてあげてください。
そして、これからも見守ってく下さるように、新たなる存在としてお手合わせをしてゆく中、仏の教えを学んでいってください。そうする中で、新たなる縁が加わり、すず様の運命、命運、仏教では結果が変わります。
運命とは民間思想の一種です。
納得のいかなかった受け入れがたい出来事を「運命」という言葉で「ああ、あれは運命だったんだ」と解釈しようとする人間の思考形態が存在するだけで、理性的なものの見方、正しいものの見方、お釈迦さまの正見とは真逆の考え方です。
運命思想を信じる人は、占いなどを信じるような誤ったものの見方をする人々ですから、ご子息様のご不幸に「運命」という言葉を重ねられてしまっては、むしろ「違和感」すら生ずることと思われます。
仏教では、因果、因縁果と申しまして、原因と結果、結果を変えるために、働きかける「縁」という考え方があります。
運命というものは、原因と結果で決まっているものではなく、縁を加える事によって結果が変わっていくものです。
すず様が、お苦しい状態であるならばこそ、正しいものの道理、正しいものの見方を縁として加える事で、結果が晴れやかになります。
その為には、お釈迦さまも生まれてすぐにお母さまを亡くされ、さまざまな苦しみの中に在っても、救われたように、すずさま自身が、ご子息様の菩提を弔うためにも、菩提心をおこし、仏さまの教えを学ぶことです。
生老病死、愛別離苦…、さまざまな苦しみから救われる教えが仏教です。
ここで、すずさまの運命、命運、結果が一つ変わりました。
運命というものなどないと悟り、自らの心の中の、ご子息様の苦しみを取り除いて差し上げる為に、自分自身の苦しみを仏教・覚者の教え(正しい道理)を学び、それを縁とすることよって、安らかなる悟りの花を咲かせてください。
菩提を弔うというは、自らの衆生(迷妄の闇)を仏の教えによって救うことである。
質問者からのお礼
有り難うございます。教えの言葉を聞いて涙が止まりません。自分自身後悔と悔しさだけが残り何も考える事もできませんでしたが、なんとか前向きに子供の分まで頑張りたいと思います。
有り難うございました。
有り難うございます。毎日が苦しい日々でボーッとしてしまいます。突然の事故で逝ってしまった息子は悔しさ一杯だったろうと思います。
遣りきれない気持ちで一杯ですが毎日手を合わせ冥福を祝って過ごしていきます