hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

運命は決まってるのですか?

回答数回答 3
有り難し有り難し 352

享年29歳で私の子供が事故で亡くなりました。あるお人に聞いたところその子の運命は生まれる前から決まっていたとの事、子供は親を選べないと言いますが、そうじゃなくそれも生まれる前からどの家に生まれるかも決まっているとの事でした。私の家に生まれて不幸だったのか、子供の今までの人生を考えるといたたまれない気持ちで、まだ死を受け入れきれなくてどうしようもないです。もうすぐ四十九日です。何も手に付かず悲しい毎日を送ってます。教えて下さい。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

運命論は安易な現実肯定論

亀山純史と申します。
仏教では運命論を説きません。仏教では「様々な因縁(直接的な原因と、間接的な原因)によって物事は生じる」という因縁生起で物事をとらえます。もしも、この世が運命で動いていたとしたら、4年前の東日本大震災や、ネパールでの大地震も、運命だというのでしょうか。運命論は安易な現実肯定論でしょう。そしてこの安易な現実肯定論は、正しく物事の道理を見ることを妨げてしまいます。つまり、結果ばかりに目が行き、その原因(因縁)に目を向けることができなくなります。原因(因縁)に目を向けることができなければ、不幸な出来事の再発防止へとは繋がっていかないでしょう。また、人生は運命で決まっているとしたら、未来もすでに決まっているはずですが、未来を正しく予知することができる人は誰もいません。ですから、人生を運命ととらえることはナンセンスです。そして人生には喜ぶべき幸運も悲しむべき不運もなく、ただ決められた運命があるのみということになってしまいます。

さて、29歳の若さであなたのお子さんが亡くなられたとのこと。心中、お察し申し上げます。私の最近のhasunohaの回答でも述べましたが、故人はあなたに自らの死をもって、仏教の教えの要である「諸行無常」、すべてものは悉く過ぎ去っていくものであることを教えてくださっていると捉えてはどうでしょうか。平安朝の女流歌人の和泉式部は、幼い我が子の死を悼んで、「夢の世に あだにはかなき 身を知れと 教えて帰る 子は知識なり」と詠んでいます。「幼くして逝ってしまった我が子は、この私にこの世の無常なることを教えるために、生まれ、そして死んでいった仏様だったのだ。」ということです。あなたのお子さんが一番喜んでくれることは、その死を受け入れることができない状態で生活をすることではなく、悲しみの中にも、その死を通して、この世の無常をしっかりと受け止めて生きて行くことではないでしょうか。もしも、あなたがお子さんの死を受け受け入れられず、その後の人生が充実したものにならないとしたら、あなたのお子さんは、自分の死が原因でお母さんは苦しんでいると思うでしょう。それはあなたのお子さんにとって、喜ばしいことではありません。
以上が私の回答です。すずさんの心の癒しに少しでも役立てばと思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...
このお坊さんを応援する

いのちは生命とは違うもの

「いのち」を授かり「いのち」を全うする。そして姿かたちが消え亡くなった後もいのちは存在し続けます。質問者さまのすぐ近くで。感じることも見ることもできなくなりますが、より近くに存在しているという考え方もあります。

運命のようなことが決まっているのかどうかは分かりませんが,ある条件がそろい生命が誕生し,ある条件により生命が消えます。

仏教では49日で生命が生まれ変わりまた新しく誕生するといわれています。

1つ言えることは、質問者さまが今も亡くなったお子さんのことを思っているということ。それだけの愛情があれば、きっとお子さんにも伝わっていたことでしょう。そしてきっと幸せを感じていたことだと思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
このお坊さんを応援する

仏教は決まった運命ではなく 因 縁 果 変えられる命運

謹んで、ご子息様のご冥福をお祈り申し上げます。
今は大変お苦しいこととは思われますが、ご子息様のご遺影、お位牌、墓前にお手合わせをして、ご身心中のご子息様とお話をされる中で、少しづつ、次第に真実に目が開かれ晴れやかな気持ちになっていかれる事と思います。
ご子息様の今まで立派に生きてこられたこと、尊厳を讃えられ、褒めてあげてください。
そして、これからも見守ってく下さるように、新たなる存在としてお手合わせをしてゆく中、仏の教えを学んでいってください。そうする中で、新たなる縁が加わり、すず様の運命、命運、仏教では結果が変わります。
運命とは民間思想の一種です。
納得のいかなかった受け入れがたい出来事を「運命」という言葉で「ああ、あれは運命だったんだ」と解釈しようとする人間の思考形態が存在するだけで、理性的なものの見方、正しいものの見方、お釈迦さまの正見とは真逆の考え方です。
運命思想を信じる人は、占いなどを信じるような誤ったものの見方をする人々ですから、ご子息様のご不幸に「運命」という言葉を重ねられてしまっては、むしろ「違和感」すら生ずることと思われます。
仏教では、因果、因縁果と申しまして、原因と結果、結果を変えるために、働きかける「縁」という考え方があります。
運命というものは、原因と結果で決まっているものではなく、縁を加える事によって結果が変わっていくものです。
すず様が、お苦しい状態であるならばこそ、正しいものの道理、正しいものの見方を縁として加える事で、結果が晴れやかになります。
その為には、お釈迦さまも生まれてすぐにお母さまを亡くされ、さまざまな苦しみの中に在っても、救われたように、すずさま自身が、ご子息様の菩提を弔うためにも、菩提心をおこし、仏さまの教えを学ぶことです。
生老病死、愛別離苦…、さまざまな苦しみから救われる教えが仏教です。
ここで、すずさまの運命、命運、結果が一つ変わりました。
運命というものなどないと悟り、自らの心の中の、ご子息様の苦しみを取り除いて差し上げる為に、自分自身の苦しみを仏教・覚者の教え(正しい道理)を学び、それを縁とすることよって、安らかなる悟りの花を咲かせてください。
菩提を弔うというは、自らの衆生(迷妄の闇)を仏の教えによって救うことである。

{{count}}
有り難し
おきもち

質問者からのお礼

有り難うございます。教えの言葉を聞いて涙が止まりません。自分自身後悔と悔しさだけが残り何も考える事もできませんでしたが、なんとか前向きに子供の分まで頑張りたいと思います。
有り難うございました。

有り難うございます。毎日が苦しい日々でボーッとしてしまいます。突然の事故で逝ってしまった息子は悔しさ一杯だったろうと思います。
遣りきれない気持ちで一杯ですが毎日手を合わせ冥福を祝って過ごしていきます

「運・運命」問答一覧

家族の怪我が続く

以前主人について、離婚すべきかご相談させて頂いたものになります。 その際は心温まるお言葉を誠にありがとうございます。 その後数ヶ月我慢して日々を過ごしていたところ、土曜日出勤で私が仕事中子供を保育園に預けている間、主人が仲間たちと遊んでいたところ、階段を踏みはずし、脛と膝を粉砕骨折、救急車で運ばれ2ヶ月入院の大怪我を致しました。 ちなみに骨折入院中に主人は私と同じ会社を退職しました。2ヶ月ほど前に、私には相談も無く、独立するということで会社に退職届を出していました。 それもこれもやはり神様の思し召しか、独立は時期早々かと思いましたが、私は何も言わずに、毎週3歳の子供を連れて片道2時間かけて面会に行きました。 その退院後、主人も心を入れ替えたのか、家事や育児にも協力的になり、出かけても家に毎日帰ってくるようになりました。昨年の7月頭骨折、9月頭退院の出来事です。 そんな年が明けた矢先、おととい、 姉の旦那が小学生の子供2人と家族4人でスケートをしていたところ、くるぶしを骨折、本日から急遽入院、手術することになりました。姉の家族は私から見ても羨ましいくらい夫婦仲も家族仲もよく、何も悪いことは見当たらなく、夫婦2人3脚でやってきたので、1ヶ月程度の入院ということで姉が大変ショックを受けています。 また、正月に実家に帰った際、姉の家族を見送った翌日に私が帰ろうと駐車場から出た際に、私の父が階段から転倒したらしく、骨折まではいかなかったのですが足を怪我しています。 私の身の回りで、しかも父に当たる人が立て続けに足を怪我をしているのですが、何か良くない運気があるのでしょうか? ちなみに以前のご相談で記載させて頂きました私の母は、3年前の私の出産時末期の白血病だったのですが、私の祈りが通じたのか奇跡が起こり、今年はお正月料理を今までで一番盛大に準備し、私の子供と遊べるくらいまでに回復しました。 私と姉は元気ですが、立て続けに試練が来るのでかなり不安になっています。 偶然でしょうか? 何か断ち切る方法があれば教えてください。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

「運」って何ですか?

初めまして。疑問に思っていることがあります。 「運」という言葉は現代人は皆当たり前のように使う言葉です。「ギャンブルで勝ったから運がいい。」「ソシャゲのガチャで狙いが全然当たらず運が悪い」といった感じに。 このように「過去に起こった出来事」に対して運がよかった、悪かったということに対しては特に疑問はありません。 しかし、「今の俺は運がいいから次も勝てる」「私は運が悪いから何をやってもうまくいかない」といったように、あたかも「運」を自分の才能や能力のように語ることに疑問を感じます。 どんなに過去の結果がよかったとしても、これから振るサイコロの目が出る確率は変わることはないはずです。しかし人は「運」で確率が変わるかのように信じ、験担ぎをしたり神社にお参りに行ったりします。 私の中で「運」という物は以下のどれかかなと思います。 1:「運」は人が持つ才能や能力の一つであり、良い行いをすることで鍛えることができるもの。 2:「運」は天上の存在が与えるチャンスであり、良い行いをすると巡り合いやすくなる。 3:「運」なんて存在しない。全ては過去の結果であり、行いで変化するものでもない。 私は「運」を信用していない人なので3だと思っています。 お坊さんの方々は「運」というものを何だと考えるか知りたいです。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

運命とは

私は周りから見たら、外見才能知能、そんなに恵まれてたら何もかもがイージーだろと言われるように産まれました。 しかしそんな人間は周りから見るといるだけで「ずるい」許せない存在であり、あらゆる人(家族友人教師)から酷い迫害に遭い幼少期からストレスで病気だらけ、頼る人もいず、彼氏も友達(養育環境による鬱で)も自殺し義務教育すら終えられず11年も引きこもりまともな就労経験もなく15年もうつで餓死寸前で入院、差別され続け何で生きているのか分りません。 大人になっても外見のせいで異性にとんでもない目に遭わされ同性には嫉妬、やっと結婚し昨年息子を産み激しいトラウマの末、家族と夫にまで虐待されていた事を40年経って気付き絶縁し自分は悪くなかったと知り一瞬で鬱が治りました。 姉二人は普通の人生です。親戚に誰も似ていない才能があり美しい私「だけ」家族中から虐待され、三歳で殴られ死ねと言われ去年生きている間にと改名しました。 唯一優しかったのは祖母であり、その長女が「この子は産まれてきて良かったという顔をしている」と言い、彼女には何か不思議な力があったらしく私に純白のドレスを小学校入学式に贈ってくれたりもしました。 その通り私は不思議なものを見たり聞いたり奇跡的に助けられたりを何度もしました。物理的にあり得ないことが起き周りの人の方がそれを見、知っていました。 妄想などと診断された事もなく、大抵のスピリチュアルには懐疑的で幽霊や恐ろしいものを見たことは一度も無いのです。一番強烈な体験を信頼できるお坊さんに話したら「私はそんな体験はないけれど真実だと思います」と逆に驚かれました。 親は身近で知りうる限り最も愚かで尊敬できる所のない人間でした。私はたった一人ボコボコにされながら家族を助けてきました。もう十分だろうと思います。彼らが罪を悔い改める時間が残されているといいですが。 神仏がおられるのなら(私は確信しましたが何の神かは分かりません)真に救われるべきは自らの弱さに対峙せず、それを抗えぬ幼い我が子にぶつけた彼らの方だと思います。 夫は酷いモラハラを大変反省してくれ何もかもこれからだと思いましたが、夫はおそらく軽い自閉症であり息子は遺伝したのかもっと重く知的障害も併せ持っているようです。 私の人生よりも、生きる力をくれた息子を不幸にした事が許せません。 運命とは一体何なのでしょう?

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ