お砂踏みについて
今回、機会があり、お砂踏みに行くことになりました。
「各札所のご本尊の前で一心にお念じ下さい」と言う説明を読んだのですが、この際の「念じる」は具体的には何を念じればよろしいのでしょうか?例えば、南無阿弥陀仏とか、南無妙法蓮華経とか、と言うことですか?それとも、皆が健康で過ごせますようにとか、心穏やかな日々となりますように、のような事でしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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念誦の意義
ご質問の通りでよろしいかと思います。
ただし、私の知人で40日のお遍路さんから戻ってきた途端に夫婦げんかをした、という方がおられまして、、、。アワワワ…(°o°)
それではまったくのカラ念じ、何のための仏道修行だったのか、ということになります。σ(^_^;)
お念じとは正式には念誦とも言います。
体で仏を修し、口に仏を唱え、心で仏を念ずることを禅門では念誦とも申します。
お釈迦様の法を念ずることで教えを深く理解し、それを通して、物事の根本を悟り、人間的にも精神的にも向上するための行だとご理解ください。
もちろん宗派によっても異なりますが、
口にはお念仏やお真言
体は合掌などの仏の印相
心は仏様の名号やお題目や法を念ずることから、手を合わせて黙念することを一般的にお念じと申しているのです。
深い意味で申し上げれば、諸行無常、諸法無我など、お釈迦様の教えを念ずることで、我見を離れ、人間的はからいの世界である人法を離れ、煩悩やはからいのない世界である仏法に住するのです。
⚫人間が決めた法則やルールを人法と呼びます。
○人間が決めたものではない法則を仏法と呼びます。
⚫はからいやお悩み、煩悩にまみれた世界を人法と呼びます。
○はからいやお悩み、煩悩から離れた世界を仏法と呼びます。
煩悩の世界である人法から離れ、仏様と心が等しく会い和することがお念じの根本的な意義でもあります。
もちろん誰かの幸せを願うことであったり、感謝を捧げることであっても構いません。
仏様を念じて心が穏やかになればそれもお念じの功徳、と言えましょう。
御仏に帰依することを念じます
御仏に帰依することを念じます。帰依する、とは「おいら、あなたをお慕いして、ついていきます」と誓う事です。それを仏様の言葉に翻訳したものが御真言(ゴシンゴン)と呼ばれるものです。
宮城の方ということで、仙台空港の88ヵ所お砂踏みの事でしょうか?お四国のお砂踏みでしたら、ご本尊様の御真言がそこに書かれていると思います。お薬師様なら「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」、お不動さんなら「ノウマクサマンダバザラダンカン」、お地蔵様なら「オンカーカーカビサンマエイソワカ」、、、、、何の知識も持たずに行って大丈夫です。ご本尊様の御真言を唱えた後、弘法大師空海上人の御宝号(ゴホウゴウ)、「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」を唱えましょう。唱える回数は、7回もしくは3回が一般的です。
また、もし、西国や坂東、秩父などの観音霊場でしたら、「南無観世音菩薩(ナムカンゼオンボサツ)」ですし、不動霊場なら「南無大聖不動明王(ナムダイショウフドウミョウオウ)」などです。
巡礼は本来はお経を写経して、お寺に納めるものでした。その功徳によってお願い事が成就するのです。ですからきっとそれぞれのお寺の受付には「納経所」と書かれているはずです。
しかし近年は、お経を唱えることで「納めた」としております。どちらにしろ、それらが全て終わって初めて、それぞれのお願い事を祈願します。