執着せず得られる喜びとは
ブッタのことばの蛇の章「ダニヤ」について質問させて頂きたいです。
悪魔が「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。執著するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない」と言うのに対する師の「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」とのお答えに、なるほど……と感動しました。
そこで気になったのが、では「執着するもとのもの以外で喜びを得ることはできないのか?」という疑問です。
あるとしたら、それは一体なにでしょうか。
ご回答宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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目の前のものは執着する「もと」か、もとの「もの」か
子も牛も執着するもとの「もの」なのであって、執着する「もと」ではない。
子や牛に執着するのは執着の「もと」である
「無明」:真実に暗い(知らない)こと
「渇愛」:求めてやまない乾いた欲求
があるからでしょう。
執着する「もと」のないものは。子あることを喜び、牛あることを喜ぶ。また、子失うことをも喜び(受け入れ)、牛なきことをも喜ぶ(受け入れる)。
のではないでしょうか。
今ここにある「我」自体が縁起によるいただきものであることに目覚めるならば執着するもとの「もの」などそもそもどこにもないことに気がつきます。
であるならば、「ある」ことも「ない」ことも、都合の「いい」ことも「悪い」ことも全ていただきものなのだと喜び感謝する人生が開けるのではないでしょうか。
ご縁のままに生き、ご縁のままに去ることを受け入れるならば、憂うことなく、全てを喜び感謝する人生となります。
南無阿弥陀仏
合掌
質問者からのお礼
吉武文法 様
お早いご回答ありがとうございます!
子や牛=執着ではなく、子や牛に執着すること=執着である……良いことも悪いことも頂きものとして喜ぶことができれば、「執着せずして喜びを得る」状態になりえるのですね。
悪いことも頂きもの、喜ぶ、というところに悟りの境地を垣間見た気がしますが、理解はできても到底できそうにない自分が欲にぬれぬれなのだと実感させられます……。
すばらしいご回答をありがとうございました!