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執着せず得られる喜びとは

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有り難し有り難し 17

ブッタのことばの蛇の章「ダニヤ」について質問させて頂きたいです。
悪魔が「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。執著するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない」と言うのに対する師の「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」とのお答えに、なるほど……と感動しました。
そこで気になったのが、では「執着するもとのもの以外で喜びを得ることはできないのか?」という疑問です。
あるとしたら、それは一体なにでしょうか。
ご回答宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

目の前のものは執着する「もと」か、もとの「もの」か

子も牛も執着するもとの「もの」なのであって、執着する「もと」ではない。

子や牛に執着するのは執着の「もと」である

「無明」:真実に暗い(知らない)こと
「渇愛」:求めてやまない乾いた欲求

があるからでしょう。

執着する「もと」のないものは。子あることを喜び、牛あることを喜ぶ。また、子失うことをも喜び(受け入れ)、牛なきことをも喜ぶ(受け入れる)。

のではないでしょうか。

今ここにある「我」自体が縁起によるいただきものであることに目覚めるならば執着するもとの「もの」などそもそもどこにもないことに気がつきます。

であるならば、「ある」ことも「ない」ことも、都合の「いい」ことも「悪い」ことも全ていただきものなのだと喜び感謝する人生が開けるのではないでしょうか。

ご縁のままに生き、ご縁のままに去ることを受け入れるならば、憂うことなく、全てを喜び感謝する人生となります。

南無阿弥陀仏

合掌

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
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質問者からのお礼

吉武文法 様
お早いご回答ありがとうございます!
子や牛=執着ではなく、子や牛に執着すること=執着である……良いことも悪いことも頂きものとして喜ぶことができれば、「執着せずして喜びを得る」状態になりえるのですね。
悪いことも頂きもの、喜ぶ、というところに悟りの境地を垣間見た気がしますが、理解はできても到底できそうにない自分が欲にぬれぬれなのだと実感させられます……。
すばらしいご回答をありがとうございました!

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