尊厳の保持、尊重とは何か
いつもお世話になっています。
長文失礼致します。ただ今介護の資格を取得するため勉強中です。そしてグループホームで職場実習をうけているのですがそこで疑問を感じました。
認知症で段々とわけがわからなくなってしまうならば「その人が望むのならば」その人がまだ頭クリアなうちに、その人がその人らしくいられる内に亡くなった方が幸せな場合もあるんじゃないかと感じました。
生きることが必ずしもいいのか、死ぬことで保たれる尊厳や救われる心もあるのではないかということです。特に介護の環境がよくない場合は尚更です。
そう感じた理由は
実習中に入居者様から殺してくれない?と頼まれたことがあります。どんどん馬鹿になっていくと仰っていました。その時の不安そうというか悲しそうな顔はとても印象にあります。
認知症だからそういう不安等の思いも忘れてしまうのかもしれませんが忘れてしまうからいいのだろうか?と思います。
そして介護の環境です。自分の実習先では残念ながら不適切ケアと思われることも一部ですが見受けられます。不適切ケアの背景もあるのだろうけどいかがなものかと思います。そしてそんな不適切ケアが行われている中では尊厳は守られないのではないかと思います。
生きていてそういう環境におかれるならば頭がクリアなうちにできることなら慣れ親しんだ我が家、自分の部屋などで死ねるほうが幸せな場合もあるんじゃないかと思いました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
生活習慣の尊重が大事でしょうね
認知症の患者さんは毎日苦しみや不安でいっぱいですから、できれば認知症にならずに死にたいものですね。
QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の尊重を考えるうえでは、やはり、生活習慣の尊重が重要でしょうね。
介助や介護が必要になったとしても、今までどおりの生活習慣を続けたいものでしょう。
何時に起きて何時に食事をするとか、行きたいところに行ったり買いたいものを買ったりするとか、今まで普通にできていたことを続けられる老後が良いですね。
ただし、人間は、生きているだけで毎日苦しみや不満の連続です。
この世に生きているほとんどの人間は、死にたくないのに死にゆく人か、死にたいのに死ねない人のどちらかではないでしょうか。
ほとんどの人が、息を吸っている人か、息を吐いている人かのどちらかであるのと同じくらいに。
医療が発達して長生きできるようになったからこそ、認知症になる人が増えたのです。
それでも、いつかは肉体が壊れますから、それに伴う苦しみも、ある程度仕方ないのかもしれません。
でも、まだまだ医療は発達するでしょう。死ぬまで認知症にならずにすむ技術がいつか開発されるかもしれませんね。
死を受け入れるに望ましいのは
拝読させて頂きました。大変難しい問題ですよね。自分自身の問題として向き合うべきことですよね。
可能であるならばご自宅で自身らしく死を迎えたいところです。ですが世の中はなかなかそうはさせてもらえません。
『看取り先生の遺言』岡部医師の生き様が書かれております。ぜひともご一読頂きたいと思います。
私もできるなら身近な方々と共に自宅にて自分の人生を全うしていきたいと思います。
人間環境が変わると対応することは難しいです。まして年をとって覚えることは無理かと思います。どんなに優れた環境を整えられても本人が慣れない場所では適応できませんからね。
お世話をする方々もサポートできる体制で、やはりご自宅で死を迎えることが望ましいです。
そして周りの方々がしっかりと死を受け入れることができるのが自宅での死だと思います。