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就職活動が辛い

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私は今大学4年の就活生です。
実はこの時期になっても内定が貰えず正直メンタル面でやられてます。

今年の3月から就職活動を始めており何社かいいところまで行ったのですが内定まで結びつきません。

周りは決まった友だちばかりで相談し辛いし、大学の就職課みたいな所にいってもなかなか良いアドバイスが貰えません。
親にはいい加減内定を貰ってくれの一点張りで話しは聞いてくれません。

就活がストレスでご飯がたべれない、夜寝付けない、寝付けたとしても夢で就活をしているのを見る、胃が締め付けられるなど体にも異変が出てきてる状態です。

もう自分でもどうしていいのか分かりません。面接に行くだけでも人と接する事に恐怖を感じてしまいます。 何かいい方法はないでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

就職活動している時だけやればいい

山梨県のえりちゃんへ。
この手紙を読んでいるという事は、今あなたは就職活動の真っ只中にあるけれども、就職活動をしていないでしょうね。
人間、ご飯食べている時には就職活動していません。
トイレは入っている時も、この手紙を読んでいる時も(手紙かい)就職活動はしていません。
それでいいのです。
24時間ずっと就職活動なんてできませんし、やっていないのです。
ものの本質を学びましょう。
いま、これを読んでいる時は就職活動なんてしていません。
「え、でも今も就職活動の真っ最中にこれを読んでいるんです」なんていうのは、ものの本質に眼が開いていないだけなのです。
よーく、深呼吸をして、今をみてください。
あなたは、今、就職活動を、たった今も、しているのでしょうか?
だとしたら、具体的にたった今、どういう事をやっているのでしょうか?
本当はやっていません。やっていないでしょうに。これを読んでいるんだから。笑
これは、あなたが今、就職活動に憑りつかれていつもハラハラしている想念を除去して、冷静な自分をトリモロスためのお話です。
つまり、たった今は、これをよ・ん・で・い・る。
これを読んでいるという行為をしている時は、ただ、黙ってこれを目で追うだけです。
こういう事をしている時は、就職活動なんてしていないのです。
あなたは、就職活動という言葉に脳内がいっぱいになっていますが、本当は、今日は一日24時間の中のひと時なのです。
そこを誤解してしまっては、まさしく一日中あたかも就職活動をし続けている「ような」気持になります。
それは、錯覚です。
最後の問います。
あなたは、たった今、就職活動をしていますか?
いいえ。
私はこれを今、読んでいます。
落ち着いたら、改めて、その時その時、やるべきことをいたしましょう。
【その時にやるべきことは、その時だけやれば良い。やるべき時がまだ来ていない、もしくは過ぎたのにもかかわらず、それをやろうとしてもそれはできない。やる必要がない。やろうと思ってもできないのである。】

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。もう少し視野を広げて物事を考えてみます!

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