中絶した子への罪悪感
あの子の分まで、2倍頑張らなくては‼前を向いて歩かねば!と、がむしゃらに独り生きていました。
しかし、やはり、自分に甘く、ダラダラした生活するときもあり、(こんな私じゃ駄目だ!)と、数十年経った今も、愛しい我が子に申し訳なく苦しいです。
(もぅ、全てを捨てて我が子のところに逝きたい)と毎日考えています。
ほんの数か月でしたが、、、
お腹に居たとき、本当に本当にいとおしかった。お参りして泣いて、胎児のエコー見て泣いて。とてもいとおしかった。
怖かっただろう、痛かっただろう…ごめんなさい。ごめんなさい。考えると苦しいです。
どうすれば、我が子と私は平穏の中、二人で余生を過ごせるのでしょうか。
今でも我が子を想うと悲しくて罪悪感が消えません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
その子が苦しんでいると思っているのは貴女の想念だけ
現実がそうである以上、あなたがあなたの願い、願望を強くしてこの世の現実の今のありようを除外しして別のストーリーを想像するべきではありません。亡くなった子供に今も生きているように願うのは、亡くなったお子さんには無理な願いというものです。
あなたが、あなたの今の現実を正しく受け止めて、その中でそこに行われていること以上のものを想起されないように生きてください。
あの子が今も苦しんでいるのではないか、というあなたの思いがあなたを苦しめているのです。
私が二倍生きなければ、というのも尊いようでも人間のエゴです。
あなたはあなたしか生きられません。
自分に負担なく、今日の今を過剰に力を入れて頑張り過ぎることなく、自分の今触れていることと波長を合わせて生きてください。
貴女の生き方、考え方が何から何までも正しかったら今あなたは苦しくないはずです。
自分に責務を課したり、自分を責めることをよしとしてきた結果が、現在のあなたの苦しみを生んでいるという結果なのですから、そのあり方自体を問うべきです。
貴女は十分に苦しんだ。親の為でもなく、子供の為でもなく、家族の為でもなく、世のため人の為でもなく、無為の真人になるべきです。
理由付け、条件付け、人間のルールを離れた心が仏心です。
仏道は人間のルールを離れた安らかなる心です。
坐禅を通して、無為なるありようを探求してみてください。
無為を会得するには、探求すら休止することです。
まぁ、一息入れてみてください。
どうか、がんばりすぎないで。
2倍頑張ることは、ココロの上ではできても、行動では、どうしても「まだやれるはず!」と考えてしまいがちですから、完全にやるのは難しいと思います。頑張りすぎると、体もココロもきついです。もし可能でしたら、がんばって力を抜いてみてください。…って、それができたら頑張りすぎないんですよね。うーん。
そして、その罪悪感は、たぶん消えないと思います。
どちらを選択しても最善の選択とは言えないように思える二択の場合は、どちらを選択したとても、罪悪感は残ると思います。「するかしないか」で「する」を選んだ場合は、積極性が求められたぶん、選択した結果への責任をより強く感じるのだとも思います。でも実際には状況から「選ばされた」だけです。(相手の男性の罪悪感も無意識のうちに引き受けて2倍苦しんでいるようにも感じられました。)
「しない」を選んだ場合でも、恐らく相手からはいろいろ言われただろうし、関係性も変わったでしょうし、今とは違う方向性・場所で、やはり、苦労や苦悩の中にいたのではないかと思われます。その場合は「罪悪感」ではないにせよ、今とは違う何らかの「苦」を味わっていらっしゃったかもしれません。
お子さまとは、離れてしまってからも、ある意味では、一緒に生きて来たと言えるようようにも思えます。思い出とともにというだけではなく、ずっとその子のことを強く考え、気に掛けて過ごして来ていらっしゃったわけですから、……数十年も。ふれあうことは叶わなかったけれど、でも、ある意味では「一緒だった」と言えるのかもしれない、そのように思えました。だから、変な言い方ですが、その罪悪感は、むしろ消えない方が良いのかもしれません。
すみません。
その子に対する自分の思いが、長い年月を経てた今でも、なぜ継続しているのか、その存在意義や、今の自分の状況が、その子の存在を通して、ありありと見えてきた時に、罪悪感とは別の感情がわき起こることも、あるかもしれません。
他の感情、他の思いも、その罪悪感とともにあることが出来ます。
うまく言えませんが、頑張っている方に「頑張って!」とは言えません。
どうか、がんばりすぎないでください。ここで何でも吐露してください。
多分そのためのhasunohaだと思います。
ちぃーちゃんさんのお心が、今より、少しでも穏やになれますように。
…お力になれずすみません。
供養
ちぃーちゃん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
供養とは、「供(とも)に養う」とありますように、一緒になって、仏様の教えを養っていきましょう、という意味合いであると考えております。
その子は今は水子さんであっても、貴女様のお子であるのに変わりはありません。
水子さんは、お地蔵様に御守り頂きながら、私たちはまだこの娑婆世界になりますが、そばにいるようなお気持ちで、一緒に有り難い仏法を頂いて、共に仏様の教えを養って参りたいものでございます。
共に仏様の教えを養っていく中で、またいずれ逢えるご縁もあるかもしれません。
あまり無理、気負いなされ過ぎずに。
毎月24日は地蔵菩薩様のご縁日。全ての水子さんに向けての回向にも努めさせて頂いております。貴女様の水子様にも。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
『その子が苦しんでいると思っているのは貴女の想念だけ』
天国で我が子は幸せでしょうか。もう、痛みや恐怖から解放され、みんなと穏やかに幸せに暮らせているなら、これ以上の嬉しさはありません。
『お子さまとは、離れてしまってからも、ある意味では、一緒に生きて来たと言える』
嬉しいです。
いつも傍に我が子を感じていました。こんな母親でごめんね。いつか、、出逢えて抱きしめる事が出来る日まで待っててね。
『毎月24日は地蔵菩薩様のご縁日。全ての水子さんに向けての回向にも努めさせて頂いております。貴女様の水子様にも。』
あの子にもお心有難うございます。
『共に仏様の教えを養っていく中で、またいずれ逢えるご縁もあるかもしれません。』
逢いたいです。なんと勝手な欲望ですが。
皆様の御言葉、何度も何度も読み返し、涙しました。
皆様のお気持ちのもと、我が子は暖かく過ごせている気がして、ホッとしました。
本当に有難うございました。