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将来への焦りと不安

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有り難し有り難し 9

初めて質問させて頂きます。現在、医療関係の大学に通っており、就職活動中です。

この時期にもなり、自分の周りは続々と内定を貰っていく中、私は未だに内定を貰えずにいます。筆記試験で合格しても面接試験で落ちてしまいます。落ちるたびに自分と周りの人を比較してしまい、このまま自分は就職出来ないのかと将来への焦りと不安しか考えられません。

面接では、あがり症の為、毎回頭が真っ白になってしまい上手く言葉が繋げず、良い答えが返せた記憶がありません。面接の後には上手くいかなかった所を反省して次の面接までに対策するようにしていますが、それでも上手く話すことができず、なぜ自分はこんなに要領が良くないのか、応用がきかないのかと自分に対して苛立ち、悲しくもなってきます。時間をかけて対策しているのに進歩しない自分に不甲斐なさや情けなさも感じます。また、自分には何の魅力も無いのではないかとどんどん自信が無くなっていきました。周りの就職活動の様子を聞き、自分だけが皆んなが出来ている普通の事が出来ないのだと劣等感を抱くようにもなりました。

毎日、毎日、就職活動や国家試験の勉強に追われ、明日なんて来なければいいのにと思うようにもなってきました。就職活動が辛いのは自分だけではなく、自分が頑張らなければ就職も出来ないと頭ではわかっていても頑張るのが辛いと感じます。生きるのが辛いとも感じ、涙が止まらなくなる時もあります。

周りの人にはあなたなら大丈夫だと言われても、何が大丈夫なんだ、何も上手くいってないのにと思ってしまい、せっかく励ましてくれているのに、その言葉も素直に受け取れません。

しかし、ここで就職活動をやめるわけにもいかず、国家試験の勉強ももっと頑張らなければなりません。
どうしたら前向きに物事を捉えることが出来ますか?どうしたら自分に自信を持つことが出来ますか?

長文になってしまい、申し訳ありません。
よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

想念で生きているから苦しい。 事実で生きましょう

静岡だったら浜松の龍泉寺の井上哲玄老師か掛川の井上貫道老師のもとに参じて坐禅会に参加することです。現在あなたはものごとをみるのに想念越しでみているのです。
この両老師の坐禅会に参加してみてください。
想念で物事をみることがなくなり、事実を「直に」みることができるようになるでしょう。

救急車の音は不安でしょうか。
カラスは不吉でしょうか。
黒猫は不吉でしょうか。
虫は気持ち悪いものでしょうか。
渋滞は悪いものでしょうか。
いいえ、人間の想念上の是非善悪を運べばそこに良い悪いなどが生まれるだけです。

救急車の音だって「FOR THR PEOPLE ピーポー」助けのサウンドです。
別にそういう意味もついていませんが、本当にただ聞けるようになってみましょう。
自分の想念をそこに持ち込まないことです。

ぶっちゃけ面接はあなたのようなカチカチになる方の方が得です。
あまりにも出来過ぎ君では会社としては扱いに困るからです。
従順なYESマン、YES女子の方が素直だからという理由で採用される場合が高いです。
自信を持ってください。
ウマくしゃべろうとか、するから嘘が生じてぎくしゃくするんです。
緊張する時は緊張すればいいのです。誰でも不慣れな場所に行けば緊張するものです。と、いうより、場になじんでいないだけ。あたりを見回しつつ、そこがどういう所で、相手がどういう人かをよーく、よーく観るだけでいてください。ざっと49秒くらいで緊張は解けます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

御返答頂きありがとうございます。不安になるあまり、自分の思い込みが強くなってしまっていたんだと感じました。今はただ余計な事は考えず、目の前の事だけに集中して頑張っていきたいと思います。不安な気持ちを打ち明ける事が出来て本当によかったです。ありがとうございました。

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