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私の母はどこに行ったんですか

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死ってなんなんでしょう。死んだ人はどこに行ったんでしょう。
私は母親を知らないので愛情も何も、居たという実感もありません。
生きてるのは寂しくて、辛くて、苦しいです。
人は1人です。
父親は母親にはなれないし、気持ちはわかってもらえない。
経済的にはお世話になったし、とても感謝しています。
でも、私は父親の奥さんじゃないから家のご飯は親が作って欲しかったし、自分のことを自分でしてきたから、なんで私は1人で生きてるんだろう、と思ってましたよ。

私はなんのために生きてるのかな。家族がうまくいかなくて、親の同居人に虐待されて、それでも普通に真面目に生きたくて悪いことせず一生懸命生きてきましたが。

結婚して、自分の子供時代が辛くて、子供は欲しくなくて。

母親になるっていうことがわからなくて。家族がわからなくて。

虐待がなくて両親揃って兄弟がいて食事してそんな家庭作っていけるのでしょうか。

母に会えるなら、なんで私を生んだのか、なんで置いて死んでしまったのか、お父さんは好きだったのか、私たち兄弟にどうして欲しかったのか、聞きたいことが沢山あります。

私が死ぬのはまだ先だと思いますが、あの世ってあるんでしょうか。生んでくれた母親に会いたいです。

というか私がこの世に生まれた意味ってなんなんでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたがつくるうどんのなかに母を、自己を見出せ。

うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする
種田山頭火の俳句ですだ。
種田山頭火については自分で調べなされ。
カンタンに言うと9歳で母親が井戸に飛び込み自殺し、しかも井戸から死体が引き上げられるところをみてしまった。
あなたには種田山頭火を超えてもらいたい。
おそらく山頭火は一生トラウマを抱えトラウマと戦い、酒を愛し、酒に溺れ、それでも見いだせなかった何かがあると私は禅僧として感じています。
あなたには一つお伝えしたいことがあります。
被害者意識は自分を成長させないという事。
私もそうでした。
私はある人からものすごく恨まれたことがあります。
ああ、悪いことをしてしまった。
自分を責め、山頭火の様に酒ばかり食らい体を壊しました。
震災である方がせっかく一生懸命にみんなのためにやっているのにある事で悪く言われ自殺してしまったとききました。
その人は私が世話になった人のお父さんでもありました。
息子さんは大変しっかりした人で私などは遠くその人の元に及びません。
そんな立派な方を育てたお父さまが自死をされたという話はもの凄い衝撃を与えました。
私の師も知る立派な人で師ですら衝撃を受けておられました。
その立派な人を殺してしまったのは誰か。
それが何であるか、誰であるかはわかりません。
ただ、その方の死は、ある時自暴自棄になっていた私の自分いじめにも似た行為を止めてくれる功徳になりました。
「ああ、俺だ。俺だ。オレの被害者意識こそが!俺自身を殺そうとしている…!」
人は、心に大きな傷を負った時、何かのせいにしたり、怒り絶望ふて腐れにも似たネガティブ意識が生じます。ところが、自分自身を苦しみの沼に留めさせているのは、なんとその自分を嘆く自分自身の被害者意識やネガティブな思いそのものだったのです…!
あなたは うどん だ。
私の歌をさしあげよう。
うどんもチジミもパスタもパンも、ナンも素材は皆小麦
みんな違ってみな美味い 丹頭火
あなたがこれから、何になるか知らんです。自分でしっかりやりんさい。
あなたは うどんだけどうどんである前に小麦粉の自分を忘れとる。
何にでもなれるんです。
同じ小麦でも美味しくつくれ。
あなたの名前はうどんでしょう。
ならあなた自身をおいしく作れ。
供えなさい。
自分もこねて、のばして、こしを強く、柔軟にして。
するとそこで母と本当に向き合えます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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