お坊さん、好きなことができなくなったことってありますか?
はじめまして。花坂 埖(はなさか ごみ)と申します。
どうぞよろしくお願いいたします。
わたしは現在、とあるWEBメディアでライターとして活動しています。hasunohaの存在も、そのメディアの編集者から聞き、はじめて知りました。
そんなわたしが今回お悩み相談したいことは、
「大好きだった言葉とうまく向き合えなくなった」です。
わたしは幼少期、全く友達がいませんでした。
そんな中で友達の代わりになってくれたのが、本の存在でした。本を読んでいると、自分が寂しいことを忘れ、自由になれた気がしました。
いつしか本だけでは飽き足らず、インターネットの誰かが書いたブログ、週刊誌の記事……とさまざまな言葉を読むことが好きになりました。
またわたし自身も手紙を書いたり、作文を書いたり、言葉を書くことがかけがえのないことになりました。一番好きなことではなかったけれど、一番得意なことだったからです。
わたしにとって言葉を読んだり書いたりすることは、世界とうまくつながることでした。
だけどある日、突然言葉を読むことができなくなりました。急に自分は最低な人間で、言葉を読んだり書いたりする価値がない人間のように思えたからです。
あんなに楽しいほどにするすると言葉を読んだり書いたりできていたのに、それがとても苦痛な行為になりました。言葉を読んだり書いたりすることができないわたしには、存在価値などないと思いました。一時期は、言葉を通して世界とつながるのは諦めようと思いました。
だけど、わたしはやっぱり言葉が好きです。今でも言葉を読んだり書いたりすることにしがみついています。たぶんそれしか打開する方法がないからです。
それでもやっぱり、言葉を読んだり書いたりすることがとても苦しく、辛く、そして言葉を読んだり書いたりすることができなくなった自分がとても、悲しいです。
お坊さんは、好きなことができなくなったことはありますか?そして、言葉を読んだり書いたりすることができなくなった自分はこれからもできないままなのでしょうか?そして、大好き
なことができなくなったWebメディアの読者の方へもメッセージをいただけると幸いです。
長々と失礼いたしました。どうぞ、ご回答いただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。
花坂 埖
メンがヘラった文章を書いています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
真剣になるとたいてい苦闘の連続です
私は以前、社会学の研究者を目指して勉強していたことがあります。
子供の頃から本が好きで、大きくなるにつれて社会や文化の問題に触れたルポルタージュや紀行文を中心に読むようになりました。親が教員だったこともあり、自分も教員になって趣味で読書を続けられれば文句はない、と思っていました。
大学に進学し社会学関係の書籍を読んで魅了され、もっと深く本格的に勉強してみたいと思い、渋る親を説き伏せて大学院に進学しました。
ところが、いざ研究者を目指すトレーニングとして社会学の文献と向き合うと、これほど苦しく読み辛いものはなくなってしまいました。
「しまった、まったく向いていない道へ入り込んでしまった」と焦りましたが、周りをみれば楽しくルンルンと研究している者は一人もいませんでした。大学院生も教員も皆、ウンウン苦しみながら文献と格闘していました。
仏教界隈にも「仏教好き」な人たちがいます。中には一念発起、出家してお坊さんになる方もいます。私も個人的に何人か知っていますが、皆、お坊さんになってから楽しくルンルンしているようには見えません。中には「私の思っているものとは違った。騙された」と怒りに震えて音信不通になってしまった人の話も聞きました。
思うに、趣味の範囲で楽しめていたものも、真剣に正面から向き合うような構えができると、とたんに相手は辛く手ごわいものに思えてしまうのではないでしょうか。
好き好き、だけで楽しんでいたものが、楽しめなくなり手ごわいものとして見えてくるということは、案外、自分の構えや力量が、それと正面から対決できるレベルにまでなった印と考えることもできるのだと思います。
クリエーターは それはしょっちゅうあるから!w
初めまして!尼僧漫画家の悟東あすかです。
神仏を拝む事と漫画を描く事が大好きです。
私は普通の家から発心して出家して修行したので、お寺は持っていません。
でも、祈るのが大好きで大好きで、気がついたら修行も終わって僧侶になっていました。
漫画も描くのが大好きで大好きで、それで大好きな祈りで見つけた世界観を漫画で描きたくて漫画家になっていました。
でも、祈るのがとても辛くなった時期もあります。
そして、漫画も描くのが辛くなる時が良く来ます。
それは、自分が描いているものが、人には面白く無いんじゃないかって思ったり、あと理由も無く悶々と悩んで描けなくなる時もあります。
それから、変に頭から否定された時とか…でもって、その否定を受け流せば良いのに、真に受けてしまった時とか…。いわゆるスランプってやつだと思います。
そんなときに、漫画家としては大変先輩で今はもう亡きある方から、こんな事を言われた事があります。
『大好きで良いものが描きたいからこそ、悩んで描けなくなることがあるんだよ!
皆同じなんだよ!キミだけじゃない。肩の力を抜いて!』
好きであればこそ出来なくなるって事があるんですよ。
出来ない時に無駄にジタバタするより、今の自分に出来る事だけでもやって、時間を置くのも良いかもしれません。
そして、あなたの中にある「楽しい!」という感覚のアンテナを伸ばして
出来るだけ楽しい事をしてみましょう。
『楽しい!」という呼び水に「大好きな事」は再び湧き出して来ます。
後は、四の五の言わず兎に角やってしまうと出来なかった好きな事が出来る事もありました。
出来ないで来ないと自分を縛る事をまずやめてみましょう。
好き、にこだわらない。
この間、「最後の秘境 東京芸大」みたいなタイトルの本を読みました。貴女とジャンルは違うけれど、「その道」では腕一本で生きていこうとしている方々です。その中に、「嫌いになっても、何故だか離れられないんですよ」と、ご自身の専攻について語っている人がいました。
私も、言葉を扱うのは嫌いじゃありません(好きです)。けれど、このhasunohaの回答ペースというか、勢いにはムラがあります。回答してなくても日常で言葉は使っている訳で、「この場で表現する・回答する」という動機の濃さが変化するのだと思いますね。私たちは根本となる教えがありますから、極論すればいつも同じ事を言っているのです。だからかしらね、「過去問嫁ってばさぁ〜」って、時々思うのです。で、勢いが落ちる。
そんな時は正直に、暫く離れます。去年の12月にも、「何となく、1週間見ない」期間がありました。けれどその間、「イヤ俺は回答が好きなのに、言葉を使うのが好きなのに、やってない!」とか、焦ったりはしませんでした。寧ろ新しい体験をして、今まで持っている言葉を意味付け・解釈し直すという期間だったのかな、と思います。
気になるのは、「ある日突然、変化した」というところです。何があったのか分かりませんが、「言葉は誤解の元になる」事を念頭においていれば、「やっちまったか」程度で済むのではないかしら。分からないけど。
あとは、何事も「好きだけでは成し遂げられない」ということです。つまり、技術を磨かねばならないということ。芸大の人も同じですが、我々も言葉の使い方は技術として身につけねばなりません。
「好きなことができなく…」うーん、ありませんね。その時には「ちょっと好きじゃなくなった」のでしょう。心は移り変わるものなので、悲しくはなりません。「書けない」という現実に素直になる。「涙は出てるけど、悲しくない」って言い張っても仕方ないでしょう?またネタがたまると、ふっと書きたくなるんだろうな、と思う程度です。「好きなものは、好きでい続けなければならない」ということはないのです。仕事だから書く、ということであれば「好き」という感情に依存しないことが必要と思われます。
「大好きなことができなくなった〜」の回答も同じです。先日、林師が紹介された良寛さんの言葉(病気の時は〜)と同じです。
言葉とは道具に過ぎない
読書は確かに文字を通してさまざまな人の考えかたを知ることが出来たり、知識が増えたりします。しかし、これはすべて考えの世界。現実とはまるで違う世界です。
文字が読めない、書けないと言いつつここに質問することが出来ている。これが事実でしょう。
書けない読めないような気持ちになっているだけでしょう。
人は、気持ちや思い、心、考えといったものに振り回されやすい生き物だと思います。目の前の現実、事実から目をそらし思いを優先したくなるのでしょう。妄想は楽しいのかも知れません。
しかし、人は現実を生きています。この身体を使い、今という瞬間を生きているのです。過去も未来もない、今の様子に触れて文字なんて読めなくても、生きています。昔の日本人は読み書きできなくても問題なく生きていたでしょう。ただの道具に過ぎないのですよ。目の見えない方や耳の聞こえない方でも救われる道が仏道です。
安心して大丈夫ですよ。きちんと学べば救われますよ。