これから、どこへすすめばいいのか
私は、目的もないまま25年間も生きてきてしまいした。最近世間では、夢や希望をもつことが当たり前で正しいこと素晴らしいこととされ、目的もなく生きている私はとても恥ずかしいです。
仕事にも目的ややりがいを見いだせす、しょっちゅう仕事を休んでまわりに迷惑をかけています。かといってやりたい仕事があるわけでなく。ただ、食べて、寝て、すごしてます。
このように無気力で面白みのない人間なので恋人もいません。はやく死にたいと思いますが、それも怖いです。
しかし、ただ無気力なだけでなく、ここ10年間はやりたい仕事を真剣に考えてきましたが、結局形になりませんでした。2か月前に仏の道に歩むことも考えましたが、よくよく考えると、こんな迷いの多い自分に人を救えるはずもなく、仏を心から信じることもできないと心のどこかで気づいてます。
目的もなく、何にも情熱を持てない私は、どこへすすめばいいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ネガティブ状態に浸ろうとする自分に怒りを
怒りは活用次第でパワーになります。
人間、誰でも今まで自分がズルズルやってきた事は「本当はしたくないんだけど…( `д´)」と口ではいっても、結局それをずっとやってきたというキャリアがある以上、自分で選択しているという面があります。
したい、のです。それを本心で、自分が。
かりに暗いネガティブお悩み状態になっていても、陶酔状態ともいうべきものなのです。
理由をつけただけで、単に変わりたくなーい、めんどくちゃーい、ヤだもーん、このままがい―って、惰性を選択している状態です。
建前より本心の本当の要求の怠惰さを感じ一刻も早く抜け出しましょう。
よーく真剣に自分を見破ることです。私も昔そういう時がありました。
その為には、イイ方法としてそんな自分に心底ムカついて怒りを以って泥沼から引きずり出してあげることですよ。
カチンときたエネルギーでショボい自分に反旗を翻して、しっかりしろや!バチン!とひっぱたいて、軌道修正、方向転換あるのみ!です。
甘やかしたって変わらんので自分に厳しく言い聞かせることです。
価値がない?➡自分が価値を見出そうとしない。
目的がなーい、何も情熱が無い?➡いい訳に逃げるなっ!!陶酔してんじゃねえ!って、ネガティブ地獄に浸るなっ!って自分にたった今すぐブチ切れNGをつきつけることですよ。
「アタシ…(´-ω-`)目的がなーい、何も情熱が無いんだもーん」ということを理由として、本当に本当に本当に変わろうとしないという陶酔を選ぼうとしている自分を、このままじゃ本当マジやべぇ…やべぇよ…と体の底から火が出るような恥ずかしい思いをしてみましょう。
本当は目的がない、無価値ということが問題なのではないはず。
本当に恥じるだけでいいのです。恥一回。恥エネルギー、即、超絶発生。
そのエネルギーを本心に突き付けて、軌道修正し、二度とエネルギーを言い訳に使わんこってす。
どこへすすむべきか。その自分の惰性と矛盾を壊しに行動するほかありません。
本当に変わる気があれば、無価値という名前なんぞ今すぐ改名し、ネガティブ陶酔をやめればいい。自分にそんなラベルを付けている内は、まだ変わる気が無いのです。
本気で変わりたければ、まず、改名されることが第一歩です。またどうぞ。
仏道は自分が救われる道
無価値人さんのような方は決して少なくないんだろうと思います。
平和ですし、豊かですし、別段求めくても何とかなる時代です。
しかし、だからこそ悲しみが生まれる時代だろうと思います。
仏道は他を救う道でありません。
私が救われる道が仏道です。
私は仏様の教えに出遭って幸せを感じています。
私はお参りに行く先々で「お坊さんになるのものいいですよ!」と誘っています。
6年ほど経ちますが未だ誰もお坊さんにはいませんが‥笑
私は自分の信仰があってよかったと心から思っています。
もし、興味があられるなら飛び込んでみるのもいいかも知れません。
全く違った視点を与えられるかもしれません。
「出離心」・「菩提心」・「慈悲心」・「三宝帰依」
無価値人様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
確かに世間では夢や希望を持つことが当たり前であり、それが正しいこと、素晴らしいこととされておりますが、問題はその内容となります。
世間一般における夢や希望というのは、まあ、大抵のところ欲望・自己満足を満たすようなものが多いかと存じます。簡単には、お金儲けや地位や名誉、名声、権力を得ることなどであります。
しかし、もしそれらを得ることができたからといって、本当に幸せになれるのかと申しますと・・まあ、迷い苦しみはさほど変わらないのではないかと存じます。
確かに、文明が進み、生活が便利・快適となり、一見すると豊かな世界・社会になって、釈尊が教えをお説きになられた頃と今では、雲泥の差がありますが、人の心の迷い・苦しみは結局のところ釈尊在世時とあまり変わっていないと言えるのではないかと存じております。
とにかく、世間の八法(利得、損失、称賛、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)に本当の幸せを見いだすことはできない、本当の幸せ、つまり、仏教における悟り・涅槃へと至ることが、真に幸せとなるために必要であるとして、そのための道を釈尊はお説きになられた次第でございます。
世間の言うところの夢や希望や幸せは、もちろん完全に否定は致しませんが、それらはどのみち朝露の如しもの、脆く儚いものでしかなく、そんなものにあまりとらわれてしまってはいけないと仏教では説くこととなります。
この度、無価値人様は、誠に得難い「出離心」をお持ちとなられまして、仏道を歩まれたいと思われましたこと、これは誠に尊い「菩提心」でございます。そして、迷い苦しむからこそ、他の迷い苦しむことが自分のことのように分かるようにもなり、それが「慈悲心」へと繋がるものとなって参ります。
そして、次に「三宝帰依」となれば、それで四拍子揃って、誠に仏道を歩む者となることができます。
無価値人様は、僧侶にならなければ仏道を歩めないとお考えであれば、それは違います。上記の四拍子を揃えて、仏教を学び修していく者が仏道を歩む者でございます。例え、在家にあって結婚、出産しようが、どんな仕事や立場となろうとも是非、これからも少しずつでも仏教を学び修していって頂けましたらと存じております。きっとその先に目的も見えてくることになるでしょう。
川口英俊 合掌
仏教の道を歩まれるのはいいと思います
仏道は迷っている人の方が、学び救われるものだと思います。自分だけの修行です。人を干渉せずひたすらに自分のために修行します。
いつしか、その心理を悟った時に、他人のためにというようなことを考えるものだと思います。
道はあとから…
目的は誰が持つのでしょう?
やりがいは誰が感じるのでしょう?
気力はどこから来るのでしょう?
面白味がないと誰が決めたのでしょう?
仏を誰が信じるのでしょう?
どれも周りからは誰も与えてはくれません。
夢や希望は最初からあるものではなく、何かの途中で湧いてくるものです。
考えるだけではなにも変わりません。
迷惑をかけている人がいるなら、迷惑をかけない自分をつくる方が先決ですし、それも小さな目的の一つでしょう。
そのプロセスで、やりがいが出来、気力が湧き 、面白味が生まれ、人や仏を信じることのなんたるかがわかってくると思います。
考える前に目の前にあることをこなしていきましょう。
進む道なんてどこでもかまわないのです。
歩いた後を振り返ると、そこに道があった。
ただそれだけだけです。
質問者からのお礼
釈心誓 様
ご回答いただきありがとうございます。
物質的には豊かな生活をしていても心が貧くなっているのだと思います。
私も仏様の教えに救われるときがあります。
やはり、仏の道を真剣に検討してみるべきかもしれません。
邦元 様
ご回答いただきありがとうございます。
仏道は修行の後に他人のためにということが考えられるのですね。
ますます興味がわいてきました。
丹下覚元 様
ご回答いただきありがとうございます。
心にささるアドバイスでした。怒り・恥エネルギーとは考えもしませんでした。
人からあまり怒られたことがないし、自分で自分を怒ることによって
なにか変りそうな気がします。さっそく実践してみようと思います。