理趣経の十七清浄句について
理趣経の教えですが、私は「人間の欲望は本来清らかだが、使い方を誤れば汚れたものになる」と理解しています。このような理解で問題ないでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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補足
理趣経十七清浄句における、清浄はみそぎにより汚れがないとか、物理的に清らかという意味とは本質的に異なります。
自他隔たりないこと、意識的に自と他を区別しないこと、自分と他人と大自然が一体であることを清浄という言葉で表しております。
読み方や解釈の仕方により受け取り方が異なってくるのがお経ではありますが、特に理趣経は字面だけで読み解くと誤解されることも多く、本来は真言宗における「理趣経加行」というものを済ませていなければ読んではいけない経典でもあります。
真言宗のお坊さんが日常的に読んでおり、割と読みやすいので一般在家の方や他宗派の方でも読まれる方はいますが、そもそも、独学が非常に難しいお経です。
しかるべき師、阿闍梨さまについて勉強されるのをオススメしますが、現実的に難しい部分もあるかと思いますので、「中公文庫」から出ています「松長有慶」先生の「理趣経」という文庫本が非常にわかりやすく、一般の方でも読めるように書かれていますので、ぜひ手に取ってみてください。
合掌(^人^)
理趣経の意味。
清浄な心と不浄な心
清香様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
私たちの心には、大まかには、清浄な心と不浄な心があり、我々凡夫は、大よそ無明・煩悩により、不浄な心の状態にて、迷い苦しんでしまっておりますが、仏道修習、智慧と福徳の二資糧によって、しっかりと無明・煩悩を対治することで、清浄な心(空にして縁起なる真なる勝義の光明の心)を顕わにして参りたいものでございます。
密教もその清浄な心を顕わにしていくための教えとして、理趣経の教えにつきましても、誤りなく正しく学び実践して参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
染川さん
ありがとうございました(^^)
川口さん
ありがとうございました(^^)
沙門さん
ありがとうございました(^^)